中日友好を願う小さな声

 

洛陽師範学院 常丹丹

 

 

 

私は中原の地、河南省洛陽市の洛陽師範学院で日本語教師として働いて十五年になる。今年、初めてこの作文コンクールに学生を指導して応募した。

 

きっかけは四月二十五日、信陽師範大学で開かれた「河南省第十二回大学生日本語スピーチコンテスト」での出会いだった。そこでお会いした南陽師範学院の五十嵐一孝先生が、コンテスト終了後、私と学生にこう熱心に語りかけてくださった。

 

「ぜひ作文コンクールに参加してください。河南という内陸省にも、一生懸命日本語を学ぶ学生がいる。それを少しでも多くの人に知ってもらいたいのです。」

 

その言葉に私は強く動かされた。確かに、河南のような内陸省に日本語専攻があることすら、世の中にはあまり知られていない。それでも私たちは毎日必死に教え、学んでいる。帰校後、すぐに学生を募り、二十篇の作文を選んで応募した。

 

だが、ここで正直な気持ちを打ち明けたい。このところ、ずっと胸がふさがるような思いだった。

 

私の大学の日本語専攻は、今年から学生募集を停止することが決まった。専攻そのものが「削除」されてしまったのである。理由の一つは、第一志願の希望者数が極端に少ないことだ。

 

河南省のような内陸省では、日本語はもともと「マイナーな言語」である。二〇一一年に私が着任した頃は、入学者の半数近くが第一志願だったという。その後、その数字はどんどん下がり、三分の一、さらに十数パーセントまで落ち込んだ。

 

第一志願率が低くても、私たちは決して努力を怠ったことはない。学生たちは様々な大会で素晴らしい成績を収めてきた。昨年、「外研社・国才杯」日本語能力コンテストでは当校の学生が全国銀賞を受賞した。これは河南省全体で見ても唯一の栄誉である。また、昨年の河南省大学生スピーチコンテストでは、当校が二つの特等賞を独占した。今年も特等賞一つ、一等賞一つを獲得した。そして、今年終わったばかりの大学院入試では、受験生十一人中九人が無事合格の道を歩み始めている。つい先日終わった「二〇二六年花国際日本語杯」日本語学部生・大学院生学術フォーラムでは、卒業生の論文が一等賞を獲得した。学生は精一杯頑張った。教師も精一杯頑張った。それなのに――それなのに、専攻が消えてしまう。

 

なぜこんなことになったのか。理由はいくつもあるが、否定できない大きな原因がある。それはここ数年の中日関係の悪化である。特に昨年、ある日本の政治家による「台湾有事」発言は、すでに傷ついていた両国の関係にさらに追い打ちをかけた。多くの親は「今後、関係がさらに悪化するのではないか」と不安を感じ、自分の子供を日本語専攻に出したり、日本へ留学させたりすることを躊躇しているのだ。

 

私たち日本語を学ぶ者は、時代の大きな流れに飲み込まれている。どこに出口があるのか、未来がどこにあるのか、見えなくなっている。

 

私はソーシャルメディアで、「中国人はマナーが悪い」「無礼だ」といった日本人の書き込みをよく目にする。そのたびに、中国人の一人として、胸が締め付けられるような複雑な気持ちになる。自分の同胞の行動に恥ずかしさを感じる一方で、理解されないもどかしさも感じる。さらに、なぜそうした行動だけを切り取って批判されるのかという無力感も覚える。

 

その一方で、中国国内において日本人への敵視や差別的な言動、さらには実際に傷つけるような行為を目にすると、今度も強い怒りがこみあげてくる。どうしてそこまで敵対しなければならないのか。

 

私は心から、中日両国が互いに尊重し合い、仲良く暮らしていける未来を願っている。だからこそ、SNSやニュースでお互いを憎み、傷つけ合うような報道に触れるたびに、深い悲しみと無力感に襲われる。胸が痛く、やりきれない気持ちでいっぱいになる。

 

そんな複雑な思いを抱えながら、私はふと自分の学生時代を思い出す。

 

二〇〇五年、私は第一志願で日本語専攻に入学した。広東外語外貿大学である。当時はまさに外国語ブームのまっただ中だった。二〇〇八年、広州交易会(広交会)にアルバイトで参加したとき、人生で初めての日本人に出会った。古田さんである。あれから今に至るまで、私たちはずっと連絡を取り合い、彼とそのご家族との間に深い絆が生まれた。彼は私にとって、友人であり、同時に非常に信頼できる師であり、目上の存在でもある。

 

二〇〇九年、私は古田さんの招待で初めて日本へ行った。彼が保証人となり、訪友ビザを取得してくれた。私は彼の家に泊まり、娘さんと同じ部屋で寝た。昼間は彼が経営する非営利組織の保育園で子供たちの世話を手伝った。古田さんの保育園には時々アメリカ、韓国、タイなどの国々の留学生が研修に来る。中国人が来るのは初めてだった。私はまず中国語で子供たちに挨拶した。すると子供たちは目を輝かせて、「タンタンさんは中国語上手ね!」「中国と日本は遠い?」「タンタンさんはカンフーできる?」「タンタンさんは外国人だけど、僕たちと顔が同じね」と、次々に質問を投げかけてきた。そこで私は本当に多くのことを学び、この経験が世界に対する私の見方を大きく広げてくれた。

 

古田さんの影響は計り知れない。彼は私に、真の国際的視野で他者を見ること、より理性的かつ平等的に人や物事を捉えることを教えてくれた。その世界観は、今では私の子供たちにも大きな影響を与えている。

 

中日関係が厳しい現在でも、子供たちが家でこう尋ねることがある。

 

「ねえ、ママ。クラスの子が言ってたんだけど、『日本人はすごく悪い』って、本当?」

 

私はこう聞き返す。「あなたが会ったことのある日本人は、みんな悪かった?」

 

「ううん。古田のおじいちゃんやおばあちゃん、成広のおじいちゃんやおばあちゃん、水萌お姉ちゃんは、みんなとても優しい人だったよ。僕大好きよ。」

 

「じゃあ、悪い人と良い人はどうやって見分けるの? 国籍と関係があるのかな?」

 

子供はしばらく考えて、とても真剣に答えた。

 

「日本人にしろ、アメリカ人にしろ、中国人にしろ、良い人と悪い人は国籍とは全然関係ない!」

 

この答えを聞いて、胸が熱くなった。そうだ。これこそが、私たちが伝えるべき「当たり前のこと」ではないだろうか。

 

もちろん、私は中国と日本の違いに戸惑った経験もある。二〇一〇年、初めて同級生たちと京都での短期研修に参加したときのことだ。バスや電車の中で、私たちは周りのすべてが新鮮で興奮し、つい大声で話したり笑ったりしてしまった。周りの乗客の異様な視線に全然気づかなかった。私たちに悪意は一切ない。ただ日本では公共交通機関の中で大声で話してはいけないということを、知らなかっただけである。中国の習慣に慣れていたのだ(今では中国の公共交通機関もずいぶん静かになった)。

 

民宿に着き、大きな砂利道でスーツケースを引きずっていると、一人のおじさんが走ってきて、荷物を担いでくれた。私は驚いて「地面に引いて歩けばいいのに、重すぎますよ」と言うと、おじさんは笑って「朝が早いから」と答えた。なぜ時間が関係あるのか、そのときは理解できなかった。後でわかったのだが、民宿の周辺は住宅街で、私たちがあまりに早く到着したため、スーツケースの音で近所の人に迷惑をかけてしまうのではないかと気遣ってくれたのである。なんて細やかな心遣いだろう。そういう細かい気配りに、私はそれまで全く気づいていなかった。それは、日本という国に対する私の理解を一歩深めてくれる出来事だった。

 

その後、日本語教師の仕事に就き、二〇一八年には岡山県のある高校に一年間、中国語のアシスタントティーチャーとして派遣された。日本の学生たちと過ごすうちに、とても楽しい時間を共有し、お互いの理解を深めることができた。ある学生が率直にこう言ってくれた。

 

「先生にお会いする前は、中国人にまったく良い印象がありませんでした。でも、先生と知り合ってから、自分がとても狭い考え方をしていたと気づきました。ほんとうにすみませんでした。」

 

その言葉を聞いたとき、本当に心が温かくなった。たった一人の教師として、私ができることはささやかかもしれない。しかし、こうした一人一人の出会いが、少しずつ壁を低くしていくのだと実感した。

 

中国に戻ってからも、日本の経験についてよく質問される。私はいつも自分の実際の体験を話す。そして伝える。「日本には洗練された美しい文化があり、私が出会った日本人は、みんなとても親切で優しかった」と。同時に、私は中国人として、自分の国の歴史や立場を決して忘れない。過去の歴史は重く受け止めなければならないが、だからといって、すべての日本人を敵視することは正しいとは思わない。良い人も悪い人も、どの国にもいる。大切なのは、個人として誠実に向き合うことだ。それが、私が古田さんや多くの日本の友人たちから教えてもらったことでもある。

 

私はただの小さな日本語教師にすぎない。時代の大きな流れの中で、私の声はあまりにも小さく、取るに足らないものかもしれない。それでも、私は声を上げたい。真に中日友好を願う私たちの声を。