プロセスとしての「書くこと」の再定義

 

永岡友和(吉林大学外国語言文化学院)

 

 

 

序論:「書く道具」から「書く営み」へ

 

ゲームAI開発者である三宅陽一郎氏は、X(旧Twitter)上で、「身体を伝って世界にたどり着く。考えていただけでは、1万年経っても、世界にはたどり着かない」と、つぶやいている。思考だけでは内面に閉じたままであり、身体を介した行動によってはじめて世界と関わり、痕跡を残せるという氏のこの言葉は、「書くこと」という営みの本質と宿命的に共鳴している。

 

 「書くこと」とは、頭の中で完成した思考をただ書き写す作業ではない。それは、言葉を探す沈黙や逡巡といった抵抗の中で、自らの内なる対話を客観的な文字へと定着させ、そこに現れる思考の「バグ」と向き合うこと。そして、まさに「世界にたどり着く」ための、身体的な格闘そのものなのである。しかし、AIが言葉を生成し、人間の「書く」という身体的プロセスを代替しうるという、看過できない現実がある。芥川賞作家の九段理江氏が、AI95%を執筆させた小説を発表し、清華大学の沈陽氏がAIとの共作で文学賞を受賞したというセンセーショナルなニュースは、人間の「書くこと」の価値そのものを根底から揺さぶっている。私も、この大きな変化のなかで、学生たちに何を伝え、いかなる営みへと導くべきかを日々問い直している。AI時代の作文指導にあたり、私たち指導者にはどのような思考のリスキリングが求められるのか。その問いに先立ち、「身体性」という概念を軸に、私たちが共有すべき問題を提起したい。

 

.「書くこと」の思想的系譜

 

言葉が持つ創造的な力という思想は、神が「ことば」で世界を創造した聖書の物語や、「初めに、ことばがあった」と記される「ロゴス」の概念に象徴されるように古くから存在する。しかし、神の創造と異なり、人間が言葉で何かを生み出すときは常に身体を介するため、「書くこと」とは内なる世界を定着させ自己を再構築する創造的な「営み」なのである。これは、私が日々向き合う学生たちが、慣れない日本語と格闘し、自らの内なる世界を言葉として定着させようとする、まさにその身体的な営みそのものである。

 

言葉が持つこの根源的な力は、多くの哲学者によっても探求されてきた。ソクラテスは真理の探究を身体的な「対話」に求め、「書くこと」を一方通行な営みと見なした。だが、現代では壮大な逆説が生まれている。AIという対話相手の登場により、孤独な内省であった「書くこと」が、思考を映す鏡との「自己との対話」を深化させる、新たな対話的営みへと変容しつつあるのだ。

 

この内省と相互作用が融合したハイブリッドな営みは、ヴィトゲンシュタインが指摘した、言語の限界に起因する「世界の限界」を押し広げると同時に、現代の「書くこと」に、かつてないほどの身体性を与えるのである。

 

.「自己生成」という価値の再定義

 

まず、現代における「書くこと」を一括りにして論じることの誤りを指摘したい。AI技術の進化は、二つの異なる目的を持つ「書くこと」の境界線を鮮明にした。一つは、新聞記事や業務メール、取扱説明書に代表される「伝達のための書くこと」である。その目的は情報を正確かつ効率的に届けることであり、AIの活用はタイパを最大化させるため、この領域では全面的に推奨されるべきだ。もう一つは、私たちが教育の場で学生に求める、消費されるためのコンテンツ作りとは全く性質の異なる「自己生成のための書くこと」である。問題は、「伝達」の論理である効率性や完璧さが、「自己生成」の領域を侵食することにある。その価値基準で学生の作文を評価すれば、葛藤のプロセスにこそ価値を見出すという、最も人間的な視点を失うことになるだろう。

 

「自己生成のための書くこと」の価値は成果物ではなく再帰的なプロセスそのものに宿り、その本質は、思考を深める必須条件としての「価値ある非効率性」、すなわち人間的なタイパの低さの中にのみ存在しうる。この価値は、AIには決して担えない。なぜなら、この非効率な時間のなかでこそ、私たちは自分自身の「内なる対話」に深く沈潜し、思考のノイズに耳を澄ませ、自らの予期せぬ「バグ」に直面することができるからだ。例えば、私の指導において、ある学生が「異文化尊重」という当初の安易な主張から、書く過程で自身の体験との矛盾(バグ)に直面し、結果的に「理解できない『ズレ』そのものを、対話の出発点として楽しむこと」へと論を深化させる、という自己生成のプロセスを目の当たりにしたことがある。この格闘の末に生まれる文章には、無機質な完璧さとは対極にある、生き生きとした人間的な「不完全性」が刻印される。

 

 この「不完全性」の価値は、プラトンが区別した「魂の内なる生きた言葉」と「書かれた言葉」という対比によって深く理解できる。AIが生成するのは、完璧だが魂のない「書かれた言葉」の似像*である。対して、人間が生み出す「不完全性」とは、内なる葛藤、すなわち「生きた言葉」が紙の上にもがき出た痕跡そのものである。この「生きた言葉」とは、金山弥平氏によれば、プラトンが評価した「知識とともに、学ぶものの魂のなかに書き記され、自らを守ることができ、またしかるべき相手に対して語ることと沈黙することを心得ているロゴス」に他ならない。この魂に刻まれた言葉の痕跡こそ、人間の文章が持つ不完全性の正体なのだ。

 

 そしてこの「不完全性」は、単なる欠陥ではなく、読み手の魂を揺さぶる「挑発」として機能する。納富信留氏が、ソクラテスの言葉が「挑発的に『魂』という言葉を投げかけ、(中略)『魂』と呼ばれる地平への向け変えが起こる」と分析するように、書き手の葛藤が滲む文章も同様の力で、AIの滑らかな文章にはない人間的な手触りにより、読み手の深い共感を呼び覚ますのだ。

 

 

 

 

.AI時代の指導者

 

 では、この「自己生成のための書くこと」のプロセスにおいて、AIはどのような役割を果たすのか。プラトンの『パイドロス』における言葉の価値の序列を借りるならば、AIとの対話は、「戯れ(παιδιά)」として極めて高い価値を持つ。プラトンは、書くことを一種の「戯れ」と見なした。AIとの対話は、まさにこの知的で創造的な「戯れ」のレベルを、極限まで高めてくれる。学生はAIという、一人ひとりの思考の段階に合わせてパーソナライズされた無限の対話相手を使い、思考の可能性を自由に探求することができる。

 

そして、学生がその「戯れ」の成果を提出したとき、AI時代における教師の、AIには決して代替不可能な仕事が始まる。指導者に求められる心構えは、学生の文章を「完成品」ではなく、来るべき「真剣な営み」のための出発点として捉えることである。プラトンが最も価値を置いたのは、書くこと(戯れ)ではなく、「より美しく、また真剣に携わるに値することは、問答の技術によって適切な魂のうちに種蒔くこと」という、人間同士の対話であった。

 私たちの使命とは、AIという最高の壁打ち相手を知的遊戯のパートナーとして歓迎しつつ、学生を魂が変容する「真剣な営み」へと導くことである。AIが「効率」という抗いがたい価値を提示し続ける時代において、その格闘のプロセスにこそ宿る「真価」を、学生自身の身体の内にどうすれば顕現させられるのか。この問いに向き合い続けること、それこそが、私たち指導者自身の身体性を賭けた、新たな問いそのものなのかもしれない。

 

*似像(じぞう):プラトンが『パイドロス』で用いた言葉(ギリシャ語でエイドーロン)。魂に宿る「生きた言葉(本物)」に対し、それを紙に写し取った「書かれた言葉(似像)」を指す。

 

 

参考文献:

金山弥平「プラトンと書かれたテクストの問題」、2011

納富信留「魂があると語ること」、2024

プラトン著『パイドロス』、藤澤令夫訳、岩波文庫、1967

 

筆者:永岡友和(ながおか ともかず)

一九八二年島根県生まれ。吉林大学外国語学院日文系講師。産能大学経営学部卒、吉林大学外国語学院日本語言語文学専攻修士課程修了。二〇一五年より中国で大学教員となる。二〇一八年より現職。日本語教師歴10年。<nagaoka2022@jlu.edu.cn>