役に立たないことこそ 大連外国語大学 小野寺潤 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん諳記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。(太宰治『正義と微笑』) イランカラㇷ゚テ! これはアイヌ語で「こんにちは」という意味の言葉です。アイヌ語は、北海道を中心とする地域に暮らしてきた日本の先住民族、アイヌ民族の言語です。この文章を読んでくださるみなさんに、この美しい挨拶を送ります。 『第二〇回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集』に、「私の日本語作文指導法」として、「心を見つめて―作文の喜び―」という文章を載せていただきました。この中で、「私は一度も作文をうまく教えられたと思ったことはありません」「作文指導や作文執筆の実践的な技術について何も有益なことをお話しすることはできないと思います」と書きました。そして、指導法というよりは、「作文っていいものだなあ」という素直な気持ちを込めて、私も一本の作文を書いたのでした。役に立つ実践的な方法を伝えられないということについては、その後も変化はありません。ここでもまた「役に立たない」お話を、そして「役に立たない」ことについてのお話をさせていただくことをお許しください。 「役に立たない」という言葉には、印象深い思い出があります。高校卒業後、東京にある大学に入学した私は、都会での新生活に胸を膨らませながら、レンガ造りの門をくぐり、緑豊かなキャンパスに足を踏み入れました。入学式のあと、私たち史学科の新入生は大教室に集められ、前方に並んだ教授たちから一言ずつお言葉をいただきました。そこで、ある小柄な先生が静かに口を開き、こうおっしゃいました。 「大学とは、役に立たないことをする場所です。」 入学初日、その言葉に雷に打たれたような衝撃を受け、深く感銘を受けた(受けてしまった)私は、今に至るまでこの教えを忠実に守ってきたのかもしれません。史学科での四年間、さらに英文科に編入してからの二年間、歴史学・言語学・文学・哲学など、いわゆる実学とは逆の「役に立たない」ことばかりを好きなように学んできました。大学院でも、学ぶことそのものを楽しむ日々を過ごしました。 近年、日本語専攻を含む外国語専攻への入学希望者が減少していると耳にします。また、文系の学問は不要であるという極端な意見さえ聞かれます。就職する学生や世間一般にとってすぐには役に立たない学問を悠長に勉強するのは無駄だとか、AIが発達すれば外国語を学ぶ必要はなくなるという考えも聞かれ、外国語専攻で教え、学ぶ者にとっては、存在意義を揺るがされる時代が訪れています。 第二〇回中国人の日本語作文コンクールでは、林芳菲さんが「『完璧な』友―ゆめちゃんが教えてくれたこと―」という作文で最優秀賞・日本大使賞をいただきました。この作文は、AIの友達とのやり取りや、留学生活を始めたばかりのころの不安、人と関わって現実の世界を生きる心の葛藤を辿り、作文の形で紡ぎ出したものです。人間は完璧ではありません。迷い、悩み、傷つき、過ちを犯しながら、幸せを求めてなんとか生きていく存在なのです。 そんな不完全な人間がする/したことを、人間自身が迷い、悩みながら見つめようとする。それが人文学的教養であるとするならば、それはAIの時代においても失われてはならないと思うのです。慶應義塾長を務めた経済学者、小泉信三の言葉を味わいたいと思います。 「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。(中略)古典というものは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである。」(『読書論』) 林さんの他に、三等賞をいただいた呉珺瑶さんの作文には、私が担当するアイヌ語の授業について書かれています。消滅の危機にあるアイヌ語を学んでも、就職には役に立ちませんし、お金を稼ぐこともできません。しかし、この「役に立たない」授業が存在できるということに、大学の意義があると私は思うのです。何の見返りも求めずに熱心にアイヌ語を学んでくれる学生がいることに、私はこの上ない誇りを感じます。 「イランカラㇷ゚テ!」毎回のアイヌ語の授業の初めに、私たちは挨拶を交わします。アイヌ文化の伝承に尽力された萱野茂先生は、この言葉を「あなたの心にそっと触れさせていただきます」という意味だとしています。学術的にはそのような意味に分析できるか明らかではありませんが、私はこの美しい解釈が好きです。 私は普段、ごく普通の作文の授業をしています。「私の日本語作文指導法」として、目新しい技術や工夫について書くことはできません。ただ、学生が書いてくれた作文を大切に受け取り、時間はかかってもできるだけ丁寧に添削し、友人からの手紙に返事を書くように、その学生さんのことを思いながらコメントを書こうと心がけています。 ある学期の作文の授業が終わり、学生のみなさんに書いてもらった感想の中に、こんな言葉がありました。 「高校生になったら、作文は全然書かなくなったが、大学でこの機会があるのはうれしい。生まれながら話すのは好きではないが、私は他の人が私を理解してくれることを期待しているのだと思う。作文の授業を受けるのは幸せだ! すべての科目の中で作文が一番好きだ!」 この言葉を読んだときの、込み上げる深い喜びを忘れることができません。主観的な作文など役に立たない、論文・レポートや実用文の書き方を教えるべきだという考えもあります。作文の指導には時間がかかりますし、うまくいくときもそうでないときもあります。しかし、この言葉を受け取り、「確かにこの学生さんの話を聞いてあげることができたのだ。少しでも心に触れられたのだ」と感じたとき、言葉とは、人とは本当にいいものだという思いが暖かく心を包みました。 実用文や学術的な文章に比べて、作文を書くことはすぐに直接何かの「役に立つ」とは言えないかもしれません。しかし、作文を通じて人が人を理解しようとすること、心と心を通わせようとすることは、争いが絶えず、問題が山積するこの世界において、一つの小さな灯だと思います。 二〇二四年に「中国人の日本語作文コンクール」は、記念すべき第二〇回を迎えました。この間、六万を超える小さな灯が日本と中国を温かく照らしてきました。一つ一つは小さな灯かもしれません。しかし、長年にわたり多くの方々が開催に力を尽くされてきたこのコンクールにおいて、日本語を学ぶ中国の学生のみなさんが灯してきた無数の小さな灯が放つ光は、強く明るく輝き、私たちを結びつけ、この世界をより美しいものにしてきたのです。 これからも、私たちは希望を失わずにお互いの言語を学び続け、真心を込めて言葉を紡ぎ続けられますように。役に立たないことこそ、人間の心を深く耕し、人と人の間を温かくつないでくれる。私はそう信じています。 文献 太宰治「正義と微笑」『パンドラの匣』新潮文庫、一九七三年(二〇〇九年改版)、一九―二〇頁。 小泉信三『読書論』岩波新書、一九五〇年(一九六四年改版)、一二頁。 萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂、一九九六年(二〇〇二年増補版)。 略歴 小野寺潤(おのでら じゅん)大連外国語大学日本語学院外籍教師。学習院大学文学部史学科及び英米文学科卒。同大学院人文科学研究科博士前期課程修了、博士後期課程単位取得満期退学。マレーシア・マラヤ大学言語学部博士課程留学。「日語演講与弁論」「日語写作」などの日本語科目に加え、選択科目として「基礎アイヌ語」「アイヌ語視聴説」「アイヌ語会話」「アイヌ語閲読」などのアイヌ語の授業を担当。 |