専 門 と 教 養 の 往 復

 

大連外国語大学日本語学院 小出 

 

 

好むと好まざるとに関わらず、社会生活に役立つ学問を重んじる実用主義の時代に生きる学生にとり、専門知識を習得することが主要な関心事となっていることは確かである。実際に、大連外国語大学における数年の職務を通じて、想像以上に多くの学生が資格試験の取得や各種コンクールでの受賞に向けて日々の勉学に励んでいることを知った。

 

ところで、日本語教育に携わってきた数々の教員も「私の日本語作文指導方法」において再三指摘してきたように、少なからぬ学生が美辞麗句を並べた作文や抽象的で没個性的な作文を書いてしまうことが、作文指導をめぐるアクチュアルな課題になっていると思える。いかに正確な文法と適切な語彙を用いて作文を書いてこようとも、教員も人間であるからには、実感の伴わない作文ばかりを目にすると辟易することもあるだろうし、それゆえに、地に足ついた作文を書くための方法論をあれこれの作文技術を駆使して指導することもあるだろう。ところが、現代の学生の立場から考えれば、ややすれば面倒で退屈な作業になりがちな作文を書き上げる根拠とは、読者を意識したものではなく、進学や就職を見据えて語学を習得し、好成績を収めることを意識したものであった。かかる現実を抜きにして、挑戦的に表現するよう指導したところで、学生に響くはずはなかった。卒業後の進路をめぐる学生の生活的現実と教員の在り方が、こうした狭義の専門性への追求を後押ししている以上、日本語として正確であっても読むに堪えない作文に直面した際に追及されるべき責任は、第一に教員自身の専門家的態度に向けられていなければならない。その克服のためには、作文を専門的な語学の枠組みのみに閉じ込めようとせず、広い視野から知識と知識を繋ぐ教養主義の動的な思考をもとに取り組む必要があるのではないだろうか。

 

実用的で専門的な知識が重視される風潮のなかで、教養は「広く浅く」という印象から免れ得ない。しかし、教養とは多くの知識を寄せ集めることではない。専門や言語、国籍等の垣根を越えて「往(ゆ)」き、再び専門に「復(かえ)」る態度のことである、と思う。作文を書くということは語学の知識を軸に据える必要があるものの、何らかの内容を通じてしかその専門性を表現することができない以上、作文執筆に真摯な姿勢で臨むのならば、その基礎としての教養に立ち返らざるをえない。つまり、専門と教養の往復こそが、最終的な作文の完成度を左右することになるのだ。ある作文指導の経験が、それを痛感させてくれた。

 

外交官志望の女学生から作文指導を依頼されたときのことである。試行錯誤して書き上げてきた作文のテーマは多岐にわたり、当初は意欲に溢れていた学生であったが、作文のテンプレートに準拠して正確に書く技術を重点的に指導し続けてしまった結果、数か月経っても語学力が伸び悩み、執筆意欲も失いつつあるようだった。このとき、自身の態度を恥じた。専門性を過度に追求すればするほど、学生は実感の伴わない文章を書いてしまう。そこで、私自身の専門分野に引き付ける形で、学生の作文能力を鍛える知的訓練の場を用意してみることにした。日中国交正常化の実現以降、両国の外交官は「日中共同声明」に由来する表現を用いて友好関係を語ってきた。その学生は外交官志望である以上、外交上の常套句に精通しておくに越したことはない。それゆえに提案したのは、歴史的観点から「共同声明」に記載のある表現を分析し、その表現の意味するところを書き伝える練習をするはどうかということであった。この提案に学生は積極的に応じ、「一衣帯水」という有名な四字熟語に関する作文を書くことになった。

 

 

 

 

「日中共同声明」曰く、「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している」。「一衣帯水」とは、ここに謳われた漢語である。日中外交史に明るい人には分かっていることとして、この部分では日中の「長い伝統的友好の歴史」と日清戦争以来の「不正常な状態」が対比されていたのだが、それにも関わらず両国を「一衣帯水」と表現した背後にあったのは、両国が狭い海を隔てて近接していると強調することで、両国の緊密な友好関係を象徴していたということであった。学生が書き上げた作文によると、「一衣帯水」という四字熟語は、一筋の意を表す「一」、衣類の帯を表す「衣帯」、川や海を表す「水」の三語から成り立った語であるという。そして同作文は、多くの人々が「一衣帯水」を「いちい、たいすい」と区切って読んでいるが、意味を考慮すれば「いちいたい、すい」と読むべきだと指摘した。道理にかなっている。私はここに、ある言葉を中国語で説明するときの中国語の考え方と、日本語で説明するときの日本語の考え方とを、専門や言語の境界を越えて往復する態度をみた。恥ずかしながら、私は「一衣帯水」を二つの二字熟語から構成された語であると思い込んでおり、その歴史的な用法や含意を経験的に知っていただけで、その語の成り立ちを理解していなかった。

 

また、その学生の作文によると、「一衣帯水」という語の出典は『南史』「陳後主紀」にあり、陳の君主の悪政によって民が窮乏していたとき、隣国の隋の文帝が「私は民衆の親の立場にあり、一本の帯のような細い川(揚子江)に隔てられているからといって、その民を見捨てることができるだろうか」と述べ、陳を征伐した故事に由来するという。その学生は続けて、「一衣帯水」には「衣帯一江」や「一牛鳴地」などの類語が存在するが、「共同声明」に「一衣帯水」の語が用いられたのは、隋が荒廃した陳に手を差し伸べたように、日中両国も双方の困難時に支え合えるような友好的発展の道を歩み続けることを願ったからであると主張して、作文を締めくくった。

 

私はこの「一衣帯水」解釈に同意しない。「共同声明」における「一衣帯水」の用法は、その出典における用法と区別して考えなければ、「共同声明」の起草者にあらぬ疑いがかけられてしまうからだ。しかし、ある歴史現象をより長い歴史的スパンから考察し、歴史にアナロジーのロマンティシズムを見出す柔軟な発想には感銘を受けた。こうした作文の読後感を学生と共有しつつ、日本語や表現の誤用を指導した際に確信したのだが、学生はつい先日まで失っていた執筆意欲をすっかり取り戻していた。

 

上述のように専門と教養を往復する動的な思考方法を学生に提示すること、これは第一に、学生にとり執筆意欲の向上が望めるだけでなく、最終的な作文の完成度を決定づけることにもなるだろう。第二に、語学をめぐる専門知識を軸に据えつつも、知識を柔軟に結びつける思考方法の会得が望めるだろう。

 

少なからぬ学生が卒業後の進路を憂慮しているがゆえに、好成績を収めるための「模範解答」的作文を書いてきてしまうという生活的現実から遊離してはならない。基礎としての教養に立ち返るよう指導することで、学生が自身の専門性を具体的かつ個性的に表現する一助となり、それが進学や就職の別を問わず、学生の将来を切り拓く力となるはずだ。だからこそ私は、学生を指導する以前に、自身の教員としての在り方を見直したい。

 

 

 略歴:小出瞬(こいでしゅん) 明治大学政治経済学部卒、同大学院教養デザイン研究科修士課程修了、同博士課程在学中。研究テーマは中国現代史、日中関係史。2023年より大連外国語大学で日本語会話、作文、スピーチの授業と、戦後日中関係史の授業を担当。日本語教師歴二年。