「書いて表現する意欲と希望」へつなげる指導

 

西安交通大学 西川 侑里

 

 

 

 「自分が名誉ある大会へ寄稿して良いのだろうか」。なかなか自信や原動力につながらず、自分の未熟さを憂えるあまり、投稿することに関しての心理的な不安を抱えての投稿である。この年齢に至っても、未だによく怖いものに怯えて、心配性な私としては、「この不安を誰かに相談することで、その気持ちを多少解消してから…。」という臆病ささえも拭えなかった。しかし今回は、素晴らしい縁あって自分と関係を結ぶことができた思い入れのあった学生と私自身のお互いの日々の葛藤の記録として、そして、私自身の「作文コンクールへの作文」としてこちらへ投稿することを決めた。自分が書くことで私自身のため、そして誰かのためになれば、という思いで、今文章を執筆している。

 

 私が作文の授業を担当することになった2022-2023年の春学期は、大学で「日本語の先生」として勤務して2年目だった。もともと、「書く」と「描く」ことが好きだった自分にとっては、決して「嫌」な話ではなく、むしろ一生懸命やりたい気持ちからの強い責任感やプレッシャーと戦っていたことは否めない。そのため、とにかく「一人よがりに進めない・進められない」ことだけは、常に自分に言い聞かせていたものである。この授業を担当する私の強みは、当該学生たちと1年半の「オンライン授業」を通して、「中国人学生対日本人の先生」としての関係を作ることができていたことかもしれないと思っていた。

 

 前学期の最後の総合日本語の授業で、来学期の作文の授業の担当者が自分であることを予告した際の彼らの反応から、なんとなくお互いにとっての不安があることを強く心配した。一方、私との関係性から肯定的な反応を返してくれた彼らからの励ましと喜びの声は何よりの心の支えだった。学生の「書きたくない」「やる気がない」。その結果「何もしない」「何もできない」という姿が、私にとって何よりの不安と屈辱だったからである。しかし、その思いは自分に対してベクトルが向けられていることでもあることに気づいたとき、自分の不安な気持ちを表出してもいけないな、と思っていた。少しでも自信を持って教えられるように、と授業担当が決まってからすぐ自分で教材研究を開始したり、経験者の方からエピソードを聞いたりすることは徹底してきた。

 

 日々の彼らの様子から、「何から始めたらよいのか?」。語彙力の強化?文章の基本的な構成?現段階で、言葉の豊富さにはずいぶん課題があると感じられるが、表現力を磨くことが先手?頭の中の思案と、まずは実際の学生の反応や様子から次を考えるという形で普段の授業を進め、実際の学生の姿や表情、声、書く練習後に完成した文章などを元に自己分析をしながら授業を展開してきた。即時的な反応や結果が欲しいと思うことも多く、苦しむ期間が多かったが、長い目で学生の観察を続けた。その結果、どうやら彼らには日本語学習に対するモチベーションの低さと日本語で書くことへのアレルギー反応のような意識が強いと判断した。書くことに苦しむ学生、書いた結果に不満で満足できない学生が多いことも明らかだった。これに関してはまず、やはり自らの「書いて表現する」意欲に繋げなければならない。学生の中で何が障害になっていて、なぜ「書かない」「書けない」のかを考えてきた。その結果、私見では意欲ややる気、希望と勇気の気持ちが欠落していると思われ、まず自発的に表現する行動に繋げることが急務と考えた。

 

 そこで、自分が抱えていた最近の書けなかった経験、書くことにしか取り柄を見いだせなかった経験とそこから学び得たことがふと想起された。書くことが好きな自分、書ける自分。反対に、書くことが苦しかった自分、書けなかった自分が生きたのである。書きたいこと、勉強したいことを表現できないもどかしさから、辛さから逃れたい気持ちと彼らの姿さえも結びついたのだ。青年期は「葛藤」の時期だ。高校生から大学生になるこの時期の彼らの苦悩は、ちょうど10数年前の当時の自分からも想起や想像ができた。

 

入賞者の先輩から作文執筆についての体験談を熱心に聞く学生たち

 

 

 作文技法の授業内容としては、特に説明文と感想文の違いを、教科書を用いて強調して伝える努力をした。具体を使って、誰かが書いた文章を用いたり、彼らの先輩たちの協力の下でお互いに話を聞いたり、相談に乗ってもらったりしながら授業を展開した。学生が、自分を表現するための手立てとして、「例えば同じことを見聞きしても、個人によって感じたことや考えたこと、印象に残ったことや想起されることは全然違う。何がその気持ちや考えにつながったのかは丁寧に分析しなければいけない。分析した結果、日本語で表現してみること。同じ『おばあちゃんから聞いた話』でも、Aさんの話とBさんの話は全く違うだろう。Aさんの話は、もしかするとおばあさんの経験の話かもしれないよね。」と語った。自分ですべきことと、教師が援助可能なことが何か、も伝えた。

 

 教師や他の学生たちの姿を見て、自分で自分の学びや可能性を創ることは大学2年生の彼らがこれから更に大人になる過程できっと身に付けねばならない課題であろう。また、思いがあってやり抜きたかった『今学期のコンクールは全員提出』は、徹底して強調した。不安との戦いと挑戦的でもあることは明らかだ。

 

 彼らが表現する日本語を読むと、私自身にも大きな学びとそれまででは実感できなかった手ごたえを徐々に感じることができた。学生が書いて表現した文章を読みながら、ふと立ち止まって彼らの日々の姿やこれまでの自分を想起したり、学生の経験や主張から現代の諸問題の課題や打開策なども考えたりしたものだ。「我以外皆我師也」という言葉があるが、この言葉の本意を、身を以て実感した。「あなたの文章を読んで、ふと考えました」いう私の感想も、できるだけ学生へと向けた。

 

 ちょうど一回りの年齢差、私と同じ未年が多い彼らについて、「今の学生は、自分とは…」などと語れば、一種の笑い話にもなるが、それゆえに「彼らに共感して寄り添える部分」と「大人としての模範を示せる部分」があったと思う。

 

 苦しんだり、泣いたりしながら、多忙な時間を工面しながら、最後にはコンクールの作文として全員が文章を書き上げた彼らから、学ぶことや教わること、もちろん反省も数えきれないほど多い。そして、私の1番の励みだったと思う。目の前の学生と仕事に誠実に向き合うことが何よりの財産の一部となった。望ましくない言動や行動のそれぞれに対して、きっと学生たちも、そして未熟な私自身も、不安や葛藤と戦う日々と経験の連続だった。

 

 大半が大学で日本語の勉強を開始した学生たちと学び、教え合いながら、「教師対生徒」でなく「人間対人間」で切磋琢磨できた日々と、自分という人間を様々な面からサポートしてくださった全ての人たちへの感謝を改めて実感した経験は尊い。教育の場に身を置く、教師としての学習の場であることはもちろん、やはり人は生きている間「人と社会の中で学ぶ」ことを強く再認識した。大学で「大きく学ぶ」経験や思い出、そして学びと世界や社会の中で強く生きていく覚悟と気持ち、誰かに対しての、書いて表現する意欲と希望に少なからずつながったはずだと信じたい。少なくとも、指導者であった私自身にとって、大変有意義な機会と教育経験であったことは言うまでもない。

 

 

プロフィール 西川 侑里(にしかわ ゆうり)長崎大学教育学部学校教育教員養成課程小学校教育コース卒、山口大学大学院教育学研究科修士課程修了。学生時代の経験や恩師との出会いから、教員養成と教育学研究を志し、学生時代は主に「社会科教育学」「国際理解教育」「比較教育学」の領域を専攻。学校と教育に関する諸問題や教育理論と実践の関連研究、最近は教育心理学分野に関心がある。趣味は音楽鑑賞、読書、文章執筆など。