「先生、日本に帰らないで」。日頃、教室では大人しく、目立たないが感性豊かな教え子から、突然泣きながらこう言われた。私は、もったいないような、ありがたいような感情とともに、二年間中国で過ごして来た日々を走馬灯のように思い起こしていた。現在、私は広東省のあ
る大学で日本語教師として働いている。そして、もうすぐ二年間の勤務を終え、帰国する予定である。
私が中国の大学で日本語教師として勤めることになった大きなきっかけは、夫の中国の企業への転職である。
転職といっても定年間近まで勤めていた会社をほんの数か月早く退職しての勤務なので、第二の人生の就職といった方がいいのかもしれない。夫から中国企業からのオファーがあると聞いた時、私は公立高校の教員として勤めていた。最初は、夫の中国企業での勤務は反対した。
それは中国についてどうこう思っていたのではなく、離れて暮らすことに抵抗感があったからである。夫は日本の企業に勤めていた若い頃、中国への長期の出張や三年間の単身赴任での駐在を経験していた。離れ離れで暮らすことは精神的に負担感が大きかった。今のようにSNSの発達はなく、連絡は国際電話やFAXのみ。子育てや私自身の仕事の悩みなど、相談することもできず家族が離れて住むことは、やはり家族が家族として存在するのには無理があると身をもって感じていたからだ。そう考えていた私が、現在のような生活をしているのは、わたし自身の発想の転換があったからだ。「私が夫と一緒に中国で生活すればいい」と。夫は私が早期退職して、中国でゆっくり暮らせばいいと言い、私も最初はそのつもりでいた。しかし、せっかく中国で暮らすのだから、旅人のような立場ではなく、生活者として中国で暮らし、生活者だからこそ体験できることを、自分という器を通して感じたいと思うようになった。
自分の今までのキャリアを生かす道を考え、たどり着いた職業が日本語教師だった。日本語教師になるべく勉強をすればするほど奥の深さを感じ、日本語を話せるからといっても教えることはできないということを痛感した。日本で、この日本語教師の勉強と中国語の猛勉強をし、そして、ありがたいことに、ご縁があり、現在この大学で勤めるようになったのである。大学は夫の住んでいる都市から約100キロ離れており、平日は大学の寮に住み、週末はバス3本を乗り継ぎ、3時間半かけて夫の住むホテルに通うという日々を送っている。金曜日の授業が終わると新婚の時のようにわくわくした気分でバスに乗る。この感覚も不思議で、こういう感覚を持てることが幸せに思ったりもする。
長年、日本で教育に携わり、生徒一人ひとりを大切にするという姿勢は中国の大学でも変わることはなかった。授業前後の丁寧な互いの挨拶、毎日の授業初めの呼名とアイコンタクト。一人ひとりの小さな変化を認め、励ますこと。わかりやすい授業のための教材研究、視覚的な資料の作成。アクティブラーニングの導入など、教える内容は違っていても教育の基本は変わらないと考え、こ
の2年間やってきた。スピーチ大会の出場や作文大会に向けての個別指導などは、学生のやる気や思いを大切にしながらやってきたが、学生たちの一生懸命な姿に接し授業以外の活動もとても楽しかった。大会で学生が優秀な成績を取ると、指導した教員も表彰されことには中国
と日本の違いを大きく感じた。日本では、考えられないことだが、教員のモチベーションや日本の教育界の教員評価の実施の流れを考えるとこういう方法もあるかもとも思った。
休日は、夫とともに住居近くの街を散歩したり、市内バスに2元払って乗り、知らない町の小探検をしたりとこれもまた、楽しかった。中国の田舎の町を歩くことは私の大好きな休日の過ごし方である。現在の中国は、30年前に夫の単身赴任中に訪問した時とは大きく変わり、近代的な大都市が全国に散在している。しかし、都市部を一歩出ると昔ながらの中国の現実もある。ここで私は、中国の力強さと優しさを感じることが多々ある。
そして、一方的な情報を受けとることの怖さもまた、感じている。日本にいると、中国のことを知るにはマスメディアというフィルターを通して知ることがほとんどである。その情報は嘘ではないかもしれないが、すべてではないということである。物事を知るということは、自分の眼で見、自分の体で経験して感じることが大切であるということを、この二年間で強く感じた。
もうすぐ帰国しなければならないことは、後ろ髪を引かれる思いもあるが、教え子の何人かは、日本の大学院に進学する準備を進めている。今度は教え子たちと日本で会えることを楽しみにして、残り少ない中国での仕事と生活者としての経験の日々を愛おしみながら過ごしていきたいと考えている。