「 大 連 通 い 」
日中友好文通の会 高柳義美
 

 中国人と日本人との間で、文通相手を紹介する「日中友好文通の会」が、30年もの間、活動していました。
その頃、この会は、隔月で会報『朋友』を発行していました。その会報には、日本人の意見や感想は載せました が、中国の若者の日本への感想や主張、提言など、載せ て欲しいと会員からの要望がありました。

 そこで、私は、過去にSKYPEで偶然知り合った大 連外国語大学日本語学院の学生・韋東明さんに、会報 『朋友』への投稿を依頼したところ、韋さんは、快諾してくれました。そして、彼の原稿は、「日中友好文通の 会」会報『朋友』に載りました。本来なら、この会報を 二部ほど、この韋東明さんに郵送すれば、事足りましたが、私は、この韋東明さんの文章を読み、会いたいと思うようになりました。
 そう思い、私は韋東明さんにSKYPEで大連に行く予定を連絡したものの、彼は、SKYPEの私のメッセージを見ていませんでした。大連外国語大学は、大連駅 からスクールバスで1時間15分ほどかかりましたが、 私は大連外国語大学へ直接のり込みました。大連外国語大学の学生課へ赴き、この韋東明さんの名前を告げ、 「この学生に会いたい」と、学生課の方に申し出ました。
 そしたら、偶然、韋さんは、クラスの役員をしていて、 学生課に彼の携帯電話番号が控えてありました。係の方が彼に電話して下さり、十五分ほどして、彼が現れまし た。「这位是日本人。为见到你,特意到大连来了」と、 係の方の説明に、彼はきょとんとするやら、驚く様子で した。韋さんは日本語で「誰ですか?」と尋ねました。

 私は「私の声に聞き覚えはありませんか? 何回もSK YPEで話していますよ」と答えたら、「高柳先生です か?」と聞いてきました。「分かりましたか? そうで す」と、今度は私が答えました。韋さんは、「まさか、 高柳先生が直接来るとは」と面食らっていました。
 ちょうど正午だったので、大連外国語大学の学生食堂 へ行き、二人で昼食を食べ始めました。初めて会ったこ ともあり、お互いによどみなく話しました。15分ほど経って、辺りを見回すと、彼の女子クラスメイト六名が、 我々二人を取り囲むように座り、話す内容を聞いていました。「何か、女子学生に囲まれて、しかも話を聞かれ てしまうのも嫌ですね」と、私。彼は「日頃、日本人と 話すチャンスがないから、日本人と話したいのです」と 言います。
 韋さんとは、翌日と翌々日、その昔、満州国時代、 「星が浦」と呼ばれた星海公園、満州国時代の建築物で 囲まれた中山広場、浪花町と呼ばれた天津街、日本人が 多く住んでいた南山地区など、大連の街を散策しました。

 話す言葉は、100%日本語でした。彼も「こんなに長い時間、日本語を話したのは初めてです」とのことでし た。
 それからです、熱心に日本語を学んでいる学生が多い 大連に行って、日本語会話の練習相手になろうと思ったのは。大連は、中国の他の都市より、日本企業の進出が 多く、日本人も比較的多いです。それでも、大連在住の 学生たちは、「日本人と話すチャンスが少ない」と、言 います。北京、上海を除く中国の大都市では、日本人と 話す機会は、大連より、もっと少ないかもしれません。
 以後、私の大連通いが始まりました。大連駅前の勝利 広場地下に「外国語角」があり、日本語学習者も集うので、私は日本語の話し相手になりました。勝利広場地下 には、日本から帰った店主の日式ラーメン店もあり、日 本語に接するいい環境でした。また、近くには、日本人 経営による喫茶店もあり、そこにも出入りしました。大連外国語大学では、私のメールアドレスが、次第に学生 たちの間で知られるようになり、日本語が未熟な二年生 から、「明日、日本語の1分間スピーチが私の順番です。
 聞いて間違いがあったら直して下さい」と、QQで連絡 が深夜来たり、「提出するレポートを訂正して下さい」 と依頼があったりしました。

 大連では、大連にある他の大学の日本語学科の学生た ちとも知り合いました。突然、大連の街中で「日本人ですか?」と、声をかけられたり、外国語コーナーで、親しくなったりしました。これらの学生たちに共通していることは、日本語が堪能で、なおかつ、日本語学習に熱心だったことです。大連市政府も後援している「キヤノン杯日本語スピーチコンテスト」に、大連外国語大学は、 熱心に取り組み、私も、開催日当日、知り合いの学生が 出場するので、応援に駆けつけたこともあります。
 大連は、私の伯父が、満州国時代に住んでいた都市でもあります。時おり、伯父に会って、大連談義をしたことがありましたが、「百聞は一見に如かず」で、実際に 目の当たりにした大連は、100回の大連談義より強烈な印象を残しました。アカシアの香りが大連の街に漂う5月 は、ロマンチックな雰囲気さえ感じることもありました。

 その昔、大連は、日本人にとって、今の中国東北地方へ の玄関口でした。清岡卓行の「アカシヤの大連」で、大連のアカシヤが知られるようになりました。 

 1964年周恩来の提唱した「日語専科学校」が開学 され、後の大連外国語大学の礎となりましたが、その日語専科学校の設立に、大連の地が選ばれたのも、何か日本との因縁を感じます。当時、周恩来は「いつか、日本 との関係が改善され、日本が大切な隣国になる。その時 のために、日本通の若者を育てたい」と言ったそうです。
 大連外国語大学には、そんな背景があったと聞きます。

 中国の大学で、第一希望で日本語を専攻する学生は、 ごくわずかと、学生たちから聞きました。その他の学院 や学科を希望したけれど、大学センター試験の点数不足 で、仕方なく、日本語を専攻する羽目になったとのこと です。しかし、希望しなかった日本語でも、勉強してい ると、次第に日本語と日本に興味が出てきて、熱心に日本語学習に励むようになる学生が多いようです。そのよ うな学生たちは、日本人との接触や交流に積極的です。
 大連外国語大学のキャンパスで、私に声をかける学生は、 紆余曲折があったとしても、最終的には、日本語を受け容れます。そして、チャンスかあり、事情が許すなら、 日本留学を視野に入れるようになります。

 今、日本語を学ぶ学生が減少していると聞きます。世界が経済的に結びつくようになり、英語を学ぶ学生が急 増しています。大連でも、中国国内の外国語学習に影響 を受けています。とは言え、日本語は、第二の外国語と しての地位を保っています。
 たった一人の中国人青年・韋東明さんと知り合ったこ とで、私の中国への接し方は大きく変わりました。大連に行く度に、韋さんと会いました。その後、韋さんは、 九州大学大学院に留学する機会を得ました。彼とは、福 岡、東京、広島で会いました。今でも、韋さんとは、頻 繁に連絡を取り合っています。韋さんと会えば、大連で も日本ででも、必ず居酒屋で一杯ひっかけて楽しく歓談 します。彼の日本語は、更に磨きがかかりました。今、 韋さんは、中国で日中関係の起業家を目指し、日々頑張 っています。

 「中国是有两千年友好往来的邻邦」とは、日中友好の 決まり文句です。中国の大都市で、日本語学習者が最も多いのが大連だと中国有識者は言います。高い意識を持 ち、敢えて日本語を選択した中国の青年たちの便宜を図 り、幇助したいと、私の大連通いは、もうしばらく続き ます。


高柳義美(たかやなぎ よしみ)
埼玉大学教育学部卒。大学の専攻は 「中国近現代史」で、主に中華民国の五・四運動、中国共
産党成立、抗日戦争、中華人民共和民国建国等を研究する。
大学卒業後、「日中友好文通の会」に所属し、日本人と中国人のペンフレンドを相互に紹介する
橋渡し役を担っている。訪中も40回以上に及び、特に大連在住者への日本語指導を担当する。
また、ここ4年ほど、「中国人学生による日本語作文コンクール」の審査員を務めている。

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