作文は、時間をかけながら学生たちと向きあうことのできる絶好の機会です。原稿用紙に赤ペンを入れるばかりが教師の役割ではありません。各国の人的交流が深化するなか、作文指導の位置づけはこれまで以上に重みを増していると考えられます。
1.異国文化 理解のために
「東日本大地震の際、日本政府は被害を受けた住民に対し、簡易住宅を安置した。」
これは当時大学三年生、日本語能力の高い学生が書いた作文の一節です。皆様は「この使い方は、ちょっと問題だな」と思ったかもしれません。読み手によっては「縁起でもない!安置とは何事か!」と怒り出しそうです。何かが十分ではありません。
どのように指導したのか振り返ってみます。まず学生の許可をもらい文章全体をPPTで映し出し「単語の使い方だけでなく、異国文化の理解の為、非常に大事です」と前置きし、クラスの全員に説明する機会をつくりました。
次に単語の意味を確認します。安置は@ある場所に据え置くこと。じっととどまらせておくこと、A神仏の像などをあがめ据えることはです。インターネットで検索すると、パソコン画面のトップには葬儀会社の宣伝がヒットします。ネット辞書の例文には「遺体を安置する」「遺体安置室」などおどろおどろしいものばかり。
他に書籍を紹介するのも効果的です。
「今、安置所に必要なのは遺体の扱い方を熟知し、葬儀社をまとめて火葬までの道筋をつけることのできる人間である。家族の動揺を最小限に抑え、滞りなく火葬場へと運んでいかなければ大量の遺体がひきも切らずに見つかるこの事態を乗り越えることはできない。」(注1)
私は続けざまに「東日本大震災直後、遺体安置所の光景を記録し、大震災の傷跡から人々がどのように立ち直って生きていくのかを取材した本です」と紹介しました(注2)。
漢字の成り立ちから「安全に設置した」と想起し、電子辞書にもあったことから「使用可」との判断に至ったと思いますが、日本人は「死体を保管する場所」を連想し、暗いイメージが付きまとい、「災害に抗し切れず死んでしまった不幸な人たちを思い浮かべる」「生存者に使うには相応しくない」と説明しました(注3)。
もちろん「書き手の自由に」あるいは「批判を覚悟で書く」という手法もありますが、何名かの学生が「簡易住宅は死体置き場とは違う」「生存者がずっと簡易住宅にとどまるという誤解が生じる」などと述べたことから、単語活用の適切なイメージを掴んでくれたと同時に、会話の授業だけでは補いきれない異国文化への理解に役立ったものと思われます。
2.言語行動 理解のために
『日本語を学ぶということは、すべからく日本の文化に軸足を置いて言葉を紡ぐ作業です。文法の世界は極めて整然とした姿を見せるのに対し、アウトプットの場面では「その表現(書き方・話し方)はおかしい」と、どことなく雑然とした様子になるのは「言葉の中に文化が刷り込まれている」からで、この感覚なしに作文指導ができるとは思いません。』(注4)。
これは日本人と同じ言語行動を強要したり、日本人と異なる言語行動を非難するものではありません。人々が言葉を使い群れをなし、行動し生きる以上、その多様性は認めざるをえません。しかし先に述べた安置と設置の違いのように、単語の使い方や言葉遣いの出来不出来のほか、相手の言語行動を意識せずにいればコミュニケーション・ギャップを生んでしまいます。
学校や身近な生活でよく見かける相違を三つあげてみます。
(1)挨拶
午後の授業前、学生たちが「先生、おはようございます」と挨拶をします。「おやっ?」と思いつつ「今は午後です。その挨拶はどこで覚えたのですか?」と尋ねます。留学中の仲間が「アルバイト先で使っている」と言いますが、いつも通用するとは限りません。日系企業に就職した初日から、終日『おはようございます!』はありえない話です。多感な時期だからこそTPOをわきまえさせなければなりません。「学校や職場とアルバイト先の対応は違います。『こんにちは』と言いなおしてください」と指導します。日本人の真似をすればいいというものではありません。
(2)御礼
学生から「日本人は何でも『ありがとう』と言いますが、本当にそう思いますか?」「家族や兄弟に御礼を言う必要がありますか?」と強い口調の質問がありました。私は「親しい間柄では御礼を言わないとか、家族に御礼を言うのは他人行儀だというのは理解できます」(注5)としながら「ご両親は必死に皆さんの学費を稼いでいます。それなのに『ありがとう』の一言が言えませんか?」と問い返すと、学生たちは声を揃え「うん、要らない(笑)」と即答しました。後日、学生の一人が母親の誕生日プレゼントに『ありがとう!』と日本語で書いたカードを添えると『どういう意味なの?謝謝?あら恥ずかしいわ!』と照れ笑い。とても喜んだそうです。
(3)敬意
学生が電話をくれました。『あのね先生、今度一緒にコーヒー飲みに行かない?』年上へ配慮のないタメ語で切り出すのを無視できません。「教師の役割は『社会化』である。それゆえ、私たちの文化や原則を伝えねばならぬ」とも言います(注6)。最初に「こんにちは。今よろしいでしょうか?」と切り出すのが妥当でしょう。言語に行動が伴わなければOUTです。明るい性格だが礼儀に欠けるでは元も子もありません。年齢の上下、親疎の遠近、学生と教師の関係など、相手の言語行動を意識した関係構築が求められます。
作文指導の論考から脇道に逸れた感がありますが、ともあれ、会話の授業だけでは補いきれない事柄が多く、異国文化への理解や相手の言語行動を理解させるのに、作文の授業も例外ではいられません。成長著しい学生たちは、自身のアイディンティティーや文化を機軸としながら社会や物事に順応し、作文の中で、家族や友人に見せたことのない自分を開示する可能性があります。そんな日々の変化と真摯に向き合うことのできる作文指導が今、求められているのではないでしょうか。
(注1) 石井光太著『遺体』(第一章「廃校を安置所に」P28、新潮社2014年)。授業は通常より遅めに話をすすめています。なお教師の言葉を聞き取れずにいると、集中力が途切れてしまう学生がいるため、該当箇所をスマホで写真に撮り、QQ群で共有します。
(注2) 作文力を向上するため多くの書籍や日本語原文に触れることを薦めています。すると「その本が読みたい」「貸して下さい」と申し出てくる学生が現われます。読後クラスで発表する事を条件に貸し出したり、学校や公共図書館の利用を促します。
(注3) 「自分の声」を大事にしつつ「他者の声」を聞かせるのも大切です。自分の視点を大切にしながら、別の視点からも推敲や執筆が行える創造的な支援を心がけます。
(注4) 拙論「作文指導で生じている三つの問題点(第十四回作品集、2018年)二百二頁
(注5) 韓国も同様の傾向があるという。『日本人の言語行動』P33〜P34、「在日外国人と日本人との言語行動的接触における相互『誤解』のメカニズム」の収集事例集を参考にした論考から(『NAFL日本語教師養成プログラム4』、株式会社アルク)。
(注6) 国分康孝著『カウンセラーのための6章』P48、誠信書房、1991年)