文中での出会い
浙江工商大学 賈臨宇
 

  どうすればいい文章が書けるようになるか、と学生によく聞かれる。これはそう簡単に答えられる問題ではない。聞かれる度に、考え込んでしまう。

  語彙・文法・構成といった文章作法について語る前に、まず作者(筆者)と読者との関係について考えてみたい。通常、作者と読者は現実世界では会わない。作者と読者との出会いは文章の中で実現するというのが一般的だ。そういう意味では、料理人と客との出会いに似ていると言える。

  料理人は店の入口にかけた暖簾や店頭に飾った提灯などの装飾によって、料理の種類や特長を客に伝える。それらは客を招き寄せるための重要な宣伝・広告だ。まず店に入ってもらわなければ、出会いは成立しない。だが、出会いが成立した場合にもその先の道は分かれる。店に入った客は品書きを見て、その中から自分の気に入ったもの、つまり惹きつけられたものを注文する。その料理がおいしければ、さらに別の料理を注文する。そしてやがて足繁く通う常連になることもある。逆に、その店の料理が口に合わなければ二度と暖簾をくぐらないということになる。

  それを書籍の場合で考えると、書名つまりタイトルが読者を惹きつける役目を果たしていると言える。まずタイトルに惹かれなければ、読者はその本を手に取りはしない。ただ、タイトルに惹かれて本を開いた場合にもその先にはやはり分かれ道がある。何らかの魅力を感じて表紙をめくった読者は章立て、プロローグを経て、小説世界にのめり込み、作者との「出会い」を果たすかもしれない。そしてその作家のファンになったりもする。逆に、タイトルに期待したのとは裏腹にページをめくるほどに興が覚め、中途で放り出して作者には会わずじまいということもあるだろう。

  作者と読者はこのようなかたちで、本の中で出会う。人間の出会いというのは不思議なものだ。いつどこでどういうかたちで出会うのか、予想はつかない。予想がつかないからこそ魅力的でもある。しかし、本の中の出会いというは、果たして偶然がもたらすものなのだろうか。いや、それは偶然などではない。むしろ作者は計画的に出会いを仕組む。策略的にと言ってもいい。作者は自分の表現したいことを芸術的な手法を用いて構成していく。例えば、穏やかな流れから一気に軋轢や葛藤のシーンを組み込み、クライマックスへと盛り上げていったりする。芸術的テクニックを駆使して、読者を笑わせることも泣かせることもできる。この点からみると作者は読者を待ち伏せしているようにも見える。作者は読者を自分の描いた世界に引っ張り込み、自身の感性、センスに共鳴させることを狙う。そしてその狙い通りに共鳴がなされたとき、両者の魂が出会ったということになる。

  そこでは読者はまるで獲物のようだ。読者は無抵抗に作者の罠に陥ってしまうということなのか。決してそうではない。実は読者こそが作品の本当の主宰なのだ。しかもわがままな主宰である。どんな文章も読者の好むスタイル・スタンスでなければ、受け入れてはもらえない。もし読み始めても筋が緩むと、捨てられてしまう。作者は一人だが、読者は多数で、好みやセンスがそれぞれ異なる。文章は作者より誕生し、読者によって生き長らえる。ある文章、作品が時空を超えてより多くの読者の心を掴んだとしたら、それは偉大な作品として賞される。世界的な名作には、言語・人種・国家・時代を越えて生き続けるたくましい生命力がある。
 
  ここまで書籍の中の出会いとして語ってきたが、「作文」においても同様のことが言えると考える。

  上手な文章を書く秘訣はどこにあるのか。語彙・文法力だろうか。文章構成能力だろうか。ここで、もう一度料理の話を振り返ってみる。料理人はそれまで磨いてきた自分の腕で、手順に従って調理をし、きれいに盛り付け、そして客に供する。いくら食材が素晴らしくても、相応な腕つまり技術を以て真剣に向き合わなければおいしい料理は作れない。料理を文章に置き換えると、いくら美辞麗句を並べてもそこに魂がこもっていなければ意味がないということになる。  
「作文」をする時、用いる語彙は自分の使いこなせる範囲の言葉で十分事足りる。美辞麗句つまりきれいごとだけを積み上げても何の意味もない。ありふれた飾り気のない言葉を用いたとしても作者の魂を作品に吹き込むことは可能であり、それこそが肝要である。
作者が自分の思いや考えをどのように文章の中で表現するのか、そこが作品の命であるとも言える。我々は物事に対して執着心を強く持てば持つほど本来の自分を失いやすい。自分の最も表現したいことについては、どうしても力を入れ過ぎてしまい、結局のところ思いどおりにいかないことが多い。

  例えば、「私の母親」という題で作文をする場合、「自分の母親は世界一優しい人だ」、「自分の母親の料理はほかの誰が作る料理よりも美味しい」というふうに、真正面から力を入れ過ぎた表現をしてしまうと、詮方尽きたような感じがして好感を持たれない。これは本人の揺るぎない信念から出た言葉ではあろうが、他者の心を打つものではない。この作文において意図することと、それを伝えるための言葉つまり表現がマッチしておらず、どっちに向かいたいのか方向性のわからない状態になっている。男の子はよく好きな女の子にいたずらをすることがあるが、それと同様に表現の仕方に歪みを感じる。この歪みを正し、読者の心を潤わせるような表現を以て読者の心を動かすような文章になるよう努力すべきである。歳月を経て自分の作品を振り返り、あたかも作者(つまり自分)の読者のような気分でいられるか、心境や伝えようとしたことが的確に表現されているか、目ざしてきた方向は間違っていなかったか、と自分に問い質した時、すべて是と言えるものにしたい。

  作文から小説まで、広く文章を書くということにおいて、私は次の二点を強調しておきたい。一つは、作者は常に読者との出会い、心の分かち合いに思いを致して文章を書かなければならない。もう一つは、力を入れすぎず、身の丈に合った言葉を用い、方向性を持って文章を書かなければならない。

 


氏名:賈臨宇  
指導大学・学科名:浙江工商大学東方語言文化学院・日本語学部

略歴:浙江工商大学副教授,日漢翻訳研究所所長。
日本学術振興会外国人招へい研究者(S16726),同志社大学客座研究員,関西大学訪問研究員。
中国浙江教育庁日本語教育発展奨励金受賞。

日本語教師指導歴:17年。

 

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