【特別寄稿】審査員のあとがき
運城学院 瀬口誠
 

はじめに

 審査基準というのは、時として非常に分かりにくい場合があるが、この「中国人の日本語作文コンクール」の選考基準は非常に歴然としていると、私は思う。日本や日本語を学ぶ中国人学生の作文を、様々な肩書の審査員が、日本語としても日中関係を考える作文としても、さらなる高みを目指してほしいと願って選んでいる。審査員たちは、年々増え続ける応募作品に、真夏の暑い最中、汗をかきながら真摯に審査に取り組んだ。応募作は、2015年が4749本であるのに対して、2016年は過去最多となる5190本に達した。これらの作文に、真剣に査読に取り組み対峙した審査員たちの労力は、いかばかりであっただろうか。まずは、審査に携わった方々の労をねぎらいたい。

1.
 2015年、日本は、中国からの旅行客のインバウンド消費、いわゆる「爆買い」に沸いていた。経済的にも、社会的にも、そして政治的にも、日本は中国からの増え続ける旅行客に依存していた。「2015ユーキャン新語・流行語大賞」といえば、誰もが知る「爆買い」だった。中国人旅行客による「爆買い」は、驚きと奇異と羨望の入り混じった日本国民の複雑な感情を表している。日本メディアは、月に数回程度、中国の祝日や連休のある時は連日報道することが、視聴者の目をくぎ付けにしておくお約束のネタになっていた。。
 しかし、それは思ったほどは長続きしなかった。2016年には中国人観光客の消費傾向は変化し、より洗練された消費へと変化していることが明らかになった。日本のマスコミや小売店は「爆買い」の変化に戸惑うようになった。メディアでは、「爆買いの終わり」や「変化する爆買い」などの文字が踊るようになった。多くのメディアでは、為替相場の変動や中国経済の減速と関係しているかのようにとらえるのが一般的であった。そのような環境の中で、学生たちは、2016年「中国人の日本語作文コンクール」のテーマ「爆買い以外にできること」に取り組んだのである。

 今次の応募作文は何よりもまず、中国人自身が「爆買い」に爆進した時代の、日本製品に魅かれつつも自らその現象に戸惑いを感じ始めた世代の、中国人自身の記録である。また各作文は、戸惑いを感じ始めた新しい世代の学生たちが、いかに新しい未来を志向しようとしているかを語ってくれている。一度は「爆買い」に参加したことがあっても、次に行くときは何ができるのか、爆買いの別の側面、日本の魅力再発見など、日本人があらためて考えさせられる物語でもある。そして、そう、この「中国人の日本語作文コンクール」の作文はまさに、新時代の中国を担う若者たちの、中国、日本、そして世界に対する宣言でもある。他のメディアでも日中関係や自国の未来に対する啓蒙を説く言説はいくらでもあるが、しかし、これほど多くの中国人学生たちの生の声を拾い発信する機会は、この「中国人の日本語作文コンクール」以外にはないと断言できる。
 この「あとがき」は、自身の審査員としての体験と感想を綴ったものではあるが、読者の方々は、審査員としての感想以上の意味があることに気づかれるだろう。審査の選考基準や感想について述べたいが、まずその前に、第12回「中国人の日本語作文コンクール」のテーマにつ
いて触れておきたいと思う。

2.
 第12回「中国人の日本語作文コンクール」に出されたテーマは3つあった。

「訪日中国人、「爆買い」以外にできること」
「私を変えた、日本語教師の教え」
「あの受賞者は今 −先輩に学び、そして超えるには?」

 学生の誰もが、「爆買い」は書きやすいテーマだと思ったことだろう。実際、テーマ「爆買い」は応募作品の大半を占めていた。そして、このテーマに応募した多くの作文の内容が、一般的で似たりよったりになってしまっていた。
 もし読者の方々が、「爆買い」以外にできることが名所観光や美食体験だけと考えるなら(実際にそのような作文が多かったのだが)、この作文集に収められている受賞作の作風は不思議に思えることだろう。確かに、中国人観光客の爆買い購買力は頂点に達し、日米欧の観光客は、近年、自国の景気後退局面に後ろ髪をひかれつつ、消費抑制型の吟味された観光に変わっている。世界中の家庭やオフィスにはメイド・イン・チャイナが欠かせなくなり、世界中の観光地には中国人観光客があふれ、旺盛な経済力を世界に示している。中国人観光客なくしては、世界の観光地が成り立たないかのようだ。
  そして、メディアに登場した中国人の「爆買い」は、単に消費現象に留まらなかった。「爆買い」と共にメディアに登場したのは、中国人観光客のマナー問題だった。エジプトの古代遺跡に落書きしたことや、公共交通機関内での騒ぎやゴミのポイ捨て問題など、程度の差はあれど、枚挙にいとまがないだろう。実は、中国人自身がこれらの問題に憂い辟易している。
 国内外の多くのメディアが「爆買い」に付きまとう問題をセンセーショナルに報じているが、それはごく一部の人であり、年々急速に改善されている(人口が多すぎるため、この「一部」が他国に比べて異常に多いのだ)。そして、「爆買い」をしている30〜50代の大人と異なり、世界に通用する洗練された感覚を持ちたいと願う新世代の中国人、それが今回の作文を書いた学生たちだという点は、どんなに強調してもし過ぎることはない。作文コンクールのテーマ設定には、そのような新世代の若者を応援するメッセージも込められていよう。

 他のテーマはどうだろうか。「日本語教師の教え」も書きやすいと思われたに違いない。このテーマは、第11回のテーマ「わたしの先生はすごい」に引き続き、中国全土で活躍する日本人および中国人の日本語教師たちの日頃の活躍に光を当てるものになっている。日本語教師たちは、日々、学生たち一人一人と真摯に向き合い、時に厳しく、時に冷徹に、時に熱っぽく、時にお釈迦様のようにすべてを包み込み、学生たちの指導にあたられている様子が、すべての応募作文の随所にあふれていた。大学の日本語専攻に進む学生の多くが、大学共通入試の点数が低かったために仕方なく日本語専攻に振り分けられたことは、周知の事実である。多くの学生は、これを失敗や挫折ととらえている。だが、多くの作文に共通していたのは、学生が苦悩や挫折の淵にあるとき、日本語の学習を諦めかけたときに、日本語教師の一言や励ましが救ってくれたという物語だった。とはいえ、挫折から立ち直る感動的な物語が、必ず評価されるというわけでもないが。
 それから、もう一つのテーマ「あの受賞者は今」、とりわけこのテーマは書きにくかったようだ。他の二つのテーマに比べて圧倒的に応募本数が少なかった。作文コンクールや各種スピーチコンテストや日本語能力試験や大学院試験など、先輩たちの目に見える結果や噂話は知っているが、日々の努力や意識や目標などは、よほどの知り合いでない限り、なかなか知ることができない。ルームメート以外のクラスメイトのことですら分からないのであるなら、どうして先輩の事を知ることができようか。このテーマを選ぶ学生は少なかったが、それでも果敢に挑戦する学生たちがいた。それらの作文は、行間に苦闘の跡がにじみ出ていた。
 実際のところ、作文テーマ選択と審査選考には、関連性はない。傾向としてあるとすれば、人気のあるテーマは、平凡な内容になりがちだし応募数も多くなるということぐらいだろう。佳作賞を超えて入賞し、更に上の賞を狙うなら、まさにその平凡な内容を超えなければならないことは、言うまでもない。審査員が期待する内容は、まさにそこにあると言える。多くの作文が一般的な内容に留まっていたが、前回入賞できなかった学生の中から、前回の選考で佳作にとどまった学生の中から、そして新しく参加した学生の中から、平凡な内容を乗り越える素晴らしい作文が生まれたことは、審査に携わった一人として大変嬉しく思う。

3.
 中国人の「爆買い」志向が変化しているのだと日本の人々が気付くまでにさほど時間はかからなかった。日本語を学ぶ学生たちは、その変化の最先端にいると言えるだろう。なぜなら、日本語や日本文化を、中国にいる誰よりも多く深く学び、アニメや映画やアイドルへの愛を表明する彼らは、他の誰よりも日本に行きたがっている。そして、彼らの日本観に多大な影響を与えているのは、他でもない、中国の各学校で日々教壇に立つ日本語教師たちである。
 学校の規模や種類や年数の別なく日本語教師たちは、新しい世代の学生たちをより広範囲に、より正確に知る機会がある。しかし、彼らはメディアに登場することも日本政財界の要人たちと接触する機会もないため、その活動は知られずにいる。日本語教師たちは皆、日本人であるとないとにかかわらず、日本発信の最前線に立つ非公式日本大使である。事実、主にインターネットから情報を手に入れる中国人学生たちの認識を修正したり明確にするのは、他でもない、日本語教師その人なのだ。そして学生たちは、日本語教師の日々の姿を見て、日本を理解する。挨拶、時間への厳しさ、食事や生活のマナー、化粧や服装や身だしなみなどのエチケット、どれも日本語教師たちを見て学んでゆく。
 テーマ「私を変えた、日本語教師の教え」は、そんな日本語教師たちの日々の活動に光を当てた、秀逸なテーマだと言える。このテーマの作文には、学生と先生の、師弟愛や疑問や葛藤が描かれている。そしてそこには、現代中国の若者が抱える諸問題が垣間見えるだけでなく、教師自身が省みるべきことも見いだされる点で、非常に興味深い。多くの場合、学生たちの境遇に手を差し伸べる教師の姿が描かれ、苦難に陥った学生たちは、再び、夢や希望を見出し歩み続ける。そのような物語が、場所や人物を変え、各地で紡がれている。そんな彼ら日
本語教師たちを語る言葉があるとすれば、まさしく、「優しき師のまなざしは、遥かなる神のごとし」である。
 なぜ日本語教師はそんなに生徒に寄り添うのであろうか? その最たる理由は、たぶんM・ヴェーバーが喝破した意味での「天職」が、日本語教師の心底にあるからだろう。安い月給、不安定な身分、不透明な未来、どこからの支援もない、ある人は辺境の地で孤軍奮闘し、尊敬される教師であり続けている。そして、「それでもなお!」と言い続けることができる者だけが日本語教師なのだ。彼らは日本語教師という職業に「天職」を見出した。他の教師たちは、安定した身分と収入に胡坐をかき、授業以外では必要最小限の接触だけ、教壇の上から一方的に教えるだけ、それは理解できないことではない。受賞作だけでなく惜しくも受賞を逃した作文からも、学生たちが教師をよく観察している様子がうかがえる。学生たちは知っている、誰が真の教育者なのかを。

4.
 私は、今回の作文コンクールの審査において、何千もの作文に目を通し審査する機会を頂いた。同じ作文に二度三度、多いときは一つの作文に十回も目を通すこともあるので、実際に読んだのは、その倍ぐらいになるかもしれない。時にほほえましく、時に首をかしげ、時にうなずき、時に感嘆し、時に目を潤ませながら読ませていただいた。実際に、例年に増して、いい作文は多かった。作文を通じて、自分自身への刺激となったり、学ばされる事も多かった。学生たちの作文一本一本に真剣に向き合い、その思いをくみ取り、「あの先輩を超える」作文を選ばせていただいた。
 もちろん、いい話ばかりではない。学生たちの作文に問題がないわけではない。誰よりも多くの応募作文を読んだ者として、いくつかの問題点を指摘しておくことも、学生たちが次回以降の作文コンクールで更に良い作文を作るために、必要なことであろう。問題点は、大きく分けて三つに分類できる。その三つとは、日本語の問題、作文内容の問題、そしてルール・規定の問題である。今後、作文コンクールに応募する際にも重要となる点なので、ぜひ、現場の教師の方々も一緒に考えていただきたい。

 受賞作には、各学校の日本語教師たちの修正の手が入っている。それは驚くべきことではない(作文コンクールに新しく参加しようと思っている学生たちは、こんなすごい日本語なんて書けない!といった心配は無用ですぞ!)。彼らの修正を経て、それでもなお残っている問題点がある。中には、ネイティヴの修正が入っていない作文も多くあったが、問題点は共通している。特徴的な日本語の問題点を指摘すると、次のような点である。一つは、「了解する」という言葉の使用である。多くの学生がこの言葉を、「理解する」や「分かる」の代わりに使っていた。中国語の「了解(liao jie)」の意味で使っているのであろう。この語を使う場合は、ぜひとも、ネイティヴ日本人の「了解」を得てほしいものである。つ
まり何が言いたいかと言えば、学生たちは、是非もう一度、辞書をひく癖をつけて単語の意味を確認してほしい。そして、意味や使用例をよく見て、単語の使い方を学んでほしい、ということである。
 次に、「三つがある」という様に、「三つ」と「ある」の間に「が」を置く使い方を多く目にした。また、「どうして〜しますか?」という疑問提示の仕方、そして「私からすれば」の多用である。おそらく、多くの日本語教師が、現場で、日々指摘して直していると思われるが、悲しいことに、この問題はどうしても直らないのである。私が各地各学校の学生と話していて、どこでもこの問題が見受けられる。そう、これは中国で日本語を学ぶ学生の「習慣」なのである。これらを枝葉末節な指摘と思われる向きもあるかもしれない。だが、まさに、これらの細かい点こそが、日本語を日本語らしくネイティヴらしく表現する肝であることも、また事実なのである。
 もう一点、日本語作文を書く上での重要な問題を指摘しておきたい。それは、「人称」と「語尾」の統一問題である。これは、外国人にとっては非常に難しい問題であろう。日本語作文の難しさは、作文が、「話し言葉」を避けて書くべき文章でありながらも、筆者の性別・肩書・出身・年齢・演出スタイル等をすべて考慮して、「人称」と「語尾」を統一しなければならない点にある。日本語は、主語の「人称」と「語尾」を見て、書き手の年齢や性別や地位や出身などを想像することができる。読者に対して友達のように語り掛けるのか、それとも先生のように諭すように語り掛けるのか、論文のように「だ」「である」を使って淡々と語るのか。これは、「人称」と「語尾」の使い方でどのような人物をも表現することができる、日本語の面白い点と言えるだろう。逆に言えば、日本社会では、ある種の人物や肩書や年齢や性別の人は、特定の「人称」と「語尾」で語るステレオタイプが出来上がっているとも言える。例えば、女の人は(一般的に!)「俺が行ってやるぜ」とは言わない。男の人は(一般的に!)「あたいは結婚するのよ」とは言わない。また、「昨年は爆買いがありました。しかし、今年は爆買いは少ないようだ」、このような「語尾」の使い方も、前後の文の「語尾」が不統一となり、ネイティヴは違和感を覚えるであろう。

 日本語の問題以上に問題となったのが、作文内容の問題である。まず指摘しなければならないのが、昨今、世界中で横行しているインターネットからのコピペ(コピー&ペースト)の問題である。コピペの多くは、調べれば分かる、読めば分かる、考えれば分かる。では、どこまでがコピーなのか? 審査基準としては単純である。引用として「 」で明示しているもの以外はすべてコピーとして扱う、である。もちろん、語尾を粉飾したり部分中略コピーもある。コピペは、その全て100%を防ぐことはできないし、100%見抜くこともできない。我々審査員や教師は、コピーを見抜く技術や知識や能力を向上させなければならない。それが、結果的に、学生のためになり、作文コンクール自体のレベルアップにもつながるだろう。これについては、もうこれ以上くどくどと言う必要はないと思う。
 また、よく見られたのが典型的な四字熟語、ことわざや成句の乱用である。もちろん、上手に使えば、作文のアクセントとなったり、効果的な導入部や締めくくりになったりする。しかし多くの場合、いや、ほとんどの場合、四字熟語やことわざや成句の使い方が、不自然で不必要で唐突であった。それに、皆が同じ成句を使うことで、「またか………」という印象を与えてしまうことになりかねない。例えば、日中関係で必ずと言っていいほどの頻度で登場する語句は、「一衣帯水の隣国」である。この語は、中国の政府高官が公式の場でよく使う語だが、学生が使
う必然性はどこにもない。
 テーマとして書きやすかった「爆買い」は、多くの作文が同じような内容になったことも否めない。例としていくつかのキーワードを挙げよう。ユーキャン流行語大賞、京都、大阪、富士山、桜、北海道、和食和菓子、ラーメン、日本茶、新幹線、きれいな街、日本人と交流等々。まだ日本に行ったことがない人にとっては、どれも新鮮だし、見たい体験したい何かであろう。しかし、審査する側からすれば、皆が同じことを書くならば、もっと別の事が書かれている作文を探したくなるものである。逆の立場(日本人)で考えてみよう。「中国に行って買い物以外にできること」は何だろうか。北京、上海、広州、故宮、長城、パンダ、四川料理、餃子、北京ダック、烏龍茶、寺、東方明珠等々。もしこれだけが中国で買い物
以外にできることだとしたら、何か物足りないと思わないだろうか? 多くの作文は、表層的な日本旅行に満足してしまっていた。
 それに加えて、「爆買い」とは異なり、日本語教師をテーマとした作文の多くは個人的なエピソードも、思い出話も多くあるにもかかわらず、柔軟性に欠ける作文が多かった。導入部分に教師に関する故事成語や有名な文を提示し、自分は他の専門に行きたかったが日本語専門になった、日本語の勉強をやめようと思った、そんな時に先生の励ましでもう一度頑張ろうと思った(もしくは、スピーチコンテストの参加を迷っていたら背中を押してくれた)、最後にこれからも頑張りますスローガンを掲げる。おそらく、実際にそういうことがあったのだろう。それはそれでいい。だが、多くの作文がこの筋書きに沿って、同じような語り口で作文を書いていたのは、残念であった。
 学生および教師の方々は、ぜひ今一度、過去の作文コンクール受賞作文に目を通していただきたい。定番の物語はもう出そろっている。今、更なる高みを目指す新しい語り口の作文が求められている。その意味で、今回の審査において、前回を超える新たな作文を選ぶことが、審査員の念頭にあった。オリジナリティを感じさせ、時にユーモラスに、時にエスプリが効いていて、時に内面をさらけ出し、時に客観的で分析的な作文が選ばれる。それは、一つの到達点であると同時に、次回さらに高みを目指す学生たちの出発点、スタート地点になるのだ。ジャマイカの陸上100メートル選手ウサイン・ボルトが2008年に出した9秒69の記録を、誰もが数年は超えられないと思っていた超人的な記録を、翌年に自ら塗り替え9秒58を打ち立てたように。

 「中国人の日本語作文コンクール」は、学生と教師の共同作業の結晶である。このことを、学生と教師双方が、今一度熟考し、腑に落としていただきたい。すなわち、作文応募に関わる作業において、小さなミスが学生のチャンスの芽を摘んでしまう点は、決して大げさでも小さなことでもない。それ故、応募ルールの順守は、どんなに強調してもし過ぎることはない。どんなルールがあったのか、今一度思い出していただき、審査員として気づいた点を記録しておくことも、必要なことだと思う。
 最も多かったのは、毎年起こることだが、字数制限を守らない作文が多いことである。本作文コンクールの募集要項にはこうある。

「横書き、全角(漢数字)1500〜1600字(厳守、スペースを含めない)」
「字数は本文のみで計算してください(テーマ、タイトル、出典、スペースは含めない)

1499字は不可であり、1601字も不可であり、審査対象外になる。各種文字入力ソフトには、スマートフォン用アプリも含めて、文字カウント機能が備わっている。テーマや名前やタイトルや註や出典やスペースを除いた「文字数」を計算することができる。指導教師は、学生自身が計算したものを再度確認して、応募表エクセルデータに入力しなければならない。一字多くても一字少なくても駄目なので、教師は細心の注意を払って正確に入力しなければならない。
 日本語を学ぶ以上、細かいことに、枝葉末節の部分に細心の注意を払うことは当然と考えていただきたい。そして、相手のこと、読む人のことを考える心遣いも、また、必要なのである。募集要項の他の部分にはこうある。

 「作文の一番上に必ず、氏名、学校名、団体応募票での通し番号、テーマ(@ABのいずれか)、タイトルを記載してください(個人応募の場合、通し番号は不要です)。作文のファイル名は「団体応募票の通し番号―氏名」としてください(個人応募の場合、ファイル名は氏名のみで結構です)」

 この文を素直に読めば、作文の一番上に「氏名、学校名、通し番号、テーマ番号、タイトル」の順で記入すると読めるだろう。そして、各作文のファイル名は、「11-王某某.doc」このようになるはずである。さらに、応募票には次のような記載もある。

 「作文の最後に指導教師のご芳名を必ず明記ください(1本の作文につき最大2名まで)」

 「作文の最後」には指導教師の名前を記入する必要があることを、今気づいた方もいらっしゃるのではないだろうか。さらに、最大2名までという人数制限もある。言うまでもなく、3名は不可である。また、

「すべて日本語漢字、日本語フォントの明朝体で、数字は半角で記入して下さい」

ともある。作文はゴシック体ではなく明朝体で入力しなければならない。原稿用紙の枡目使用については記載はないが、できれば無いほうがいいだろう。なぜなら、ファイルを開くアプリケーションによって(マイクロソフトワード以外も多い)、文字と枡目のズレが生じたり文字化けが起きてしまい、読みにくくなってしまうからだ。
 今回、ルールと作文内容双方に関わる問題も一つあった。それは、テーマ3「あの受賞者は今――先輩に学び、そして超えるには?」に関してである。テーマには「あの受賞者」とある。そう、もうお気づきだと思うが、これは当作文コンクールの過去の受賞者を指している。単
なる学校の先輩、日本語科の先輩を指しているのではない。このテーマに取り組んだ作文の多くが、この点を誤解し、大学院に進学した先輩や日本に留学した先輩やスピーチコンテストで入賞した先輩について書いていた。これは、学生よりも読解力のある日本語教師たちが、学生たちに周知させなければならない点であろう。もちろん、テーマを厳格に解釈すれば、更に書き難くなってしまうかもしれない。しかし、募集要項を精読し正確に理解して実践することは、日本語を学ぶ者にとって必須であり、「ルール順守」に比較的厳しい日本社会文化理解へのステップだと考えていただきたい。
 以上のルールを厳守し、エクセル応募表を間違い無く作成することを含めて、当然のことながら、指導する日本語教師たちの責務になる。残念ながら、この一連のパッケージ作業に漏れやミスが多かったのも事実である。日々の授業や課外の作文の指導に加えて、細かい入力チェックをするというのは、非常に骨の折れる作業であることは重々承知している。だからこそ、常日頃から教室内外で、細かい点に気を付け注意を払う重要さを、諦めることなく学生たちに理解させなければならない。あらためて強調するが、募集要項を正確に読んで理解することは、学生と教師の双方ともに、作文コンクール参加の基本中の基本である。

5.
 私が審査員を始めたのが2015年、私も他の審査員も、その後にこんなに多くの作文を査読することになるなど知る由もなかった。自分のバックグラウンドは大衆雑誌編集と学術研究である。私は社会科学を軸にしてはいるが、学生時代のほとんどを教養を広げ深めることに費やしてきた。私の読書習慣の一部は女性ファッション誌や難解な理工学書を含んでいる。
 あえて自分のバックグラウンドに触れたのには訳がある。多くの場合、日本語作文を教える教師のほとんどが、学術的な書き方のみを知る大学および大学院教育の論文やレポートの書き方をバックボーンとしている。高等教育機関ではそれで十分と見る向きもあるかもしれない。大学では論文やレポートを書き、会社では報告書を書き、日本に留学するときは研究計画書を書く。確かに、それ以上の文章を書く機会は少ないかもしれない。だが私は、多くの論文やレポートや作文を読みながら、常に何か物足りなさと偏りを感じていた。いったい何が足りなくて、なぜ偏りがあると感じていたのだろうか。ある時、日本の大学院のゼミに参加し、ある教授の定年記念論集として編まれ冊子に文章を書いた私は、その理由に思い当たった。それは、論集が学術的な方向性を持っていることではない。それは、論集及びその編集者たちが想定する読者についてであった。
 学術的な文章は、権威的な学術雑誌であろうとなかろうと、難解で独特の修辞学的な言い回しを得意とする。そして、断定の助動詞「だ」とその連用形「である」という二つの語尾をこよなく愛する。私も、客観的な文章を担保するこの語尾が好きだ。とはいえ、この学術的語法は、分析的で堅苦しくなり、読者と文章の間に距離を作ってしまう。私が「くさびがた文字」と呼んでいる純粋な学術論文は、客観的であればあるほど、読者を限定していればいるほど、良しとされる。それに対して、大衆誌は、雑誌によっては読者層を限定するが、一般的に、老若男女不特定多数の読者を想定し、読者に分かりやすい文章を届けなければならない。読者に買われ読んでもらわなければ、どんなにいい内容の文も意味がない。読者を広く想定しながら書く、それこそ、私が感じていたもの足りなさであり、偏りであった。それは決して、読者の気に入るような狙ったような内容を書くということではない。広く日本人全員を読者として想定する内容と文体を持った作文、そんな作文が求められている。
 日本人でさえ難しいのに、外国人に、ましてや日本語を学んで数年の学生になんてできっこないと、多くの方は思われるかもしれない。だが私は「できる!」と高らかに応えたい。しかし、それには教師の側が宿題をしなければならない。まずは教師が多様な文章を書けるようにならなければならない。そのために、自らオープンになり、広く学び、多様性を受け入れる。それは、自分の思考様式に新しい風穴をあける非常に困難な作業である。気を落とさないでほしい。がっかりしないでほしい。学生と一緒に学んでいけばいいのだから。人は、ある意味で、永遠の学生である。そして、教師も学生も、共に学びの宿舎で生活し勉強するクラスメイト(同班同学)でもある。しかし、その第一歩は、まず作文やその日本語のどこが、そしてどのような欠陥や偏りがあったのかを理解することである。

おわりに

 今次の作文コンクール受賞作は、過去のどの作文コンクールをも超える内容と多様性を持っていると信じている。だが来年は、それらをさらに超える素晴らしい作文が生まれるに違いない。今回入賞できなかった学生、期日に間に合わなかった学生、コンクールの存在を締め切り後に知った学生、今回は日本語力が十分でなかったが次回こそは参加したいと思っている学生、そして、まだこの作文コンクールの存在を知らない学生、次回に向けた準備はすでに始まっている。
 私には一つのビジョンがある。もしかすると単なる希望かもしれないが。それは、中国で、アジアで、そして世界中で日本語を学ぶ全ての学生がこの作文コンクールに参加することである。日本語を活かしてチャンスをつかみたい、あの先輩を超えたい、私にもできるはず、みんながそう思ったとき、実現できるのかもしれない。まずは、中国で日本語を学ぶ全ての学生が参加する作文コンクールにしなければならない。それがいつ実現できるのか、私には分からない。だが、一つだけ明らかなことがある。それは、この「中国人の日本語作文コンクール」の応募作や受賞作が素晴らしいものになればなるほど、学生の切磋琢磨する意欲は高まり、教師の指導にも熱が入り、応援していただける方々も増え、参加する学生や学校が更に増えるということである。そう、「中国人の日本語作文コンクール」は学生、教師、審査員、後援協力者、主催者、そして読者、全員の共同作業なのである。
 今回、日本僑報社の段躍中氏には、多くの作文を審査する素晴らしい機会を頂いた。深く感謝して、筆をおきたい。



瀬口 誠(せぐち まこと) 
鹿児島県出身。久留米大学大学院後期博士課程
修了。雑誌編集者や高校講師などを経て、2013年より
中国山西省運城市の運城学院外国語学部講師。

 

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