このコンクールの作文は難しい。日本と中国という、明らかにうまくいっていない隣国同士の関係を前提にして、文化への興味や個人への信頼といった、まるで蜘蛛の糸のような細い可能性をのぼっていく必要がある。歴代の日本のどの首相も、歴代の中国のどの主席も思いつかなかった両国の明るい未来への答えを、日本語の勉強を始めて数年の若者に求めるのは、荷が重すぎるようにも思われる。
日本文化や日本人の魅力をほめれば、場合によっては「売国奴」のそしりを受けかねない。では、日本の悪口なら、どうか。これはそもそも、日本語の作文として書く意味がない。
指導する側の悩みも深い。学生の文章に登場する、私から言わせれば、明白に誤っている事実や社会、歴史など様々な認識をそのままにして、文法と表現だけを直すわけにはいかない。直すべきは、まず、認識のほうだ。しかし、学生が自らの国の教育の中で培った認識を、外国人が一方的に触ることはできない。
では、一体、何を書けばいいのか。
私の学校の学生の半数近くは、「調剤」の制度で、希望ではなかった日本語科に振り分けられ、日本語の勉強を始めた。しかし、二年、三年経った今では、日本語の勉強や日本が好きという学生のほうがはるかに多い。
そんな彼らには、日本語がペラペラになって、こんなことがやりたい、あんなこともやりたいという夢がある。だったら、「日本語を勉強してやりたいこと」を書いてもらえばいい。
「日本語を勉強してやりたいこと」を徹底的に書いてみる
このテーマは初級の作文参考書にもよく出てくるが、最も入口のテーマのように見えて、コンクールであれ、企業の面接であれ、日本語を勉強する人にとっての最終的なテーマなのである。
以前、私のいた新聞社の入社試験でも、面接するほうは、「なぜ、この仕事を選んだか」「あなたが本当にやりたいこと」を一番知りたがる。なぜ、それをやろうと思ったのか?きっかけは?背景は?始めてから具体的に何をした?面白いことは?困ったことは?今、自分はどの段階?次は何を目指す?最終的な目標は……。
何も事情を知らない面接官がわかるように、質問に答えるのはなかなか難しい。まして、書くとなると、いっそう難しい。
多くの学生からはこんな作文が返ってきた。「私は日本文化が好きだから、日本語科に進み、毎日、一生懸命勉強している。将来は日本に行って、もっと日本社会を知りたい」。日本文化って何?一生懸命ってどのくらい?日本社会の何を勉強するの?これでは、作文にならない。
なぜ、自分は日本語を勉強しているのか、徹底的にそれを見つめてもらうことなしに、この作文は書き出せもしなければ、完成もしない。
そこで、私は「中国語を勉強してやりたいこと」という作文を書いて生徒に読んでもらうことにした。私の作文は、亡くなった父が中学時代を旧満州の新京(長春)で過ごしたこと、私が子供の頃、父が北京から飛んでくるラジオ放送を聞いていたこと、中国語の美しい響きが私も好きだったこと、経済発展前の中国では生活のできる仕事はなく新聞記者の道を選んだこと、三十年勤めた新聞社を辞め、中国語の勉強を始めて中国で教師の道を選んだこと……、を綴った。
多くの学生は、私が求めている作文がどんなものか、イメージをつかんでくれたようだった。しかし、だからと言って『本気』の作文に挑戦しようということには、なかなかならない。心や考え方の襞に触れるような話を書くには、日本語の能力もさることながら、それをさらけ出す決心が必要だからだ。
信頼されなければ、本気の作文は書いてもらえない
初めて作文コンクールに応募した昨年、日本語クラスの3年生は16人。「先生、作文書いてみました」と言ってきたのは2人だけだった。私が勤める学校は、作文コンクールへの応募で学校の成績が加点されることもないし、学生の側のインセンティブはほとんどなく、今の日中情勢にあっては、自らの心をさらけ出すのは躊躇するに違いない。
さらに、大きな問題は、最初の読者となる私が、みんなの心の襞や考えをさらけ出せる信頼を得ているかどうかだ。信頼を得ていなければ、決して、私に心の中を披露してはくれないだろう。
私は日本経済新聞で記者をやった時間よりも、記者の原稿を判断し書き直すデスクをやっていた時間のほうが長い。経済記事は、他の記事よりも客観的に見えるが、実際はその経済記事の軽重の判断は一般の記事よりも人によるブレが大きい。信用できるデスクのもとにばかり特ダネが集まってくる。信用の薄いデスクには記者は皆、原稿を出したがらない。
新聞社であれ、学校であれ、これは同じだろう。その意味で、昨年、私は16分の2の信用を得ただけだったということだ。二年目の今年の3年生は22人。今年は7人が応募を決心してくれた。
まだ一行も書いていなくても、自分をさらけ出して書いてみようと決意した時点で、もう、この作文は半分は出来上がったと言えるかもしれない。一番の困難はもう越えた。後は、どう書くかだ。
学生が持ってきた作文を見ると、心に引っかかっているところが、あれもこれもと並んでいる。表現や文法的な間違いを直しても、せっかくの、思いが伝わらない。学生には、この作文を誰に向けて書くのかをはっきりさせるよう求めた。「日本留学に反対する両親に向けて」「日本を嫌っている祖父に」「まだ見ぬ、日本人に」「日本へ行きたい自分に」……。
誰に向けて書くかをはっきり認識する
誰に向けて書くかをはっきりさせることで、自分が一体、何に引っかかっていて、何のために誰に何を伝えればいいのかが、一気にはっきりする。ほとんどの学生が、最初の作文のテーマを自分で見直し、書き直してきた。誰に向けて書いたかがはっきりすると、かえって、テーマは普遍性を持つようになる。
ある学生は、姉が日本人と結婚することになった話、別の学生は、家に古くからあった祖父の日本製自転車の話、また、ある学生のは、教室の前に咲いた桜がモチーフだった。七人全員がそれぞれのモチーフを提示してくれた。
文法や、より正確に気持ちや事実を表現する言葉遣いなどは、中国語も日本語も使って、徹底的に話し合った。ほとんどが一対一で、一回は3−4時間。終わると一緒に、美味しいものを食べに出る。多くの学生はこれを10回、少ない学生でも5回はこんな機会を持った。学生も私も校内の寮に住んでいるからこその指導法だろうが、学生以上に、私が中国の学生の考え方を知る貴重な機会ともなった。
書く前に懸念していた、認識の違いが問題になることはなかった。よく考えると、足元を見つめ、未来を見つめている人たちの間に、そんな大きな認識の違いが生まれるはずはないのだ。
三十数年前、入社してすぐの新聞記者研修で、先輩記者が「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という英国の新聞王アルフレッド・ハームズワースの言葉を紹介したことを覚えている。当時、「なるほど」と思ったが、今は全然、そうは思わない。人は犬を噛んだりしない。もし、そんなニュースがあったら、それは嘘に過ぎない。
今回の応募を終えて、彼らがそろって投げてくれた言葉が嬉しかった。「先生、入賞するとか、しないとか、もう、どうでもいいんです。私は、自分を見つめて、自分の中に私なりの答えを見つけることができました。これで十分です」。
作文の授業の締めくくりに、私は今、3年生22人に向けて、この指導法の拙文を書いている。応募した学生にも、応募しなかった学生にも読んでもらおうと思っている。役になど立たなくても、目の前にいる日本人はこんなことを考えているんだと感じてもらえれば、中国二年目の私の作文授業は終了だ。