時間がない!
対外経済貿易大学 寺田昌代 
 
 私は書くことが苦手だ。
 近世以降「読み書きそろばん」が基礎知識の代名詞とされてきたが、私はこのいずれも苦手である。学部も文学部ではなく、修士研究は音声学。読書といっても文献と実用書がせいぜいの日々である。そんな私に何が書けるのだろう。今回の体験記も遠慮しておこうと思っていたが、エッセイ風でも可とのことだったので恥を忍んで投稿することにした。
 もうお分かりのことと思うが、私の一番担当したくない科目が「写作」である。母語話者であるという理由から大抵この科目は日本人教師が担当する。私も例外ではない。おそらく、文学で博士号を取得した中国人教師のほうがよほど上手な日本語文を書くに違いない。それがわかっていてもやはり引き受けなければならない宿命の科目である。中国国内の教育機関に勤める日本人教師は、それぞれに工夫を凝らし、学習者の能力向上に努めている。今回のテーマを書くにあたり、様々な作文指導法が報告されていることと思うので、私はまず、中国国内における作文教育の問題点について考えてみたい。
 問題は、ずばり「時間がない」ことである。
 以前勤めていた大学では三年生で通年の授業が設定されていた。せめて二年生から始めないと遅いのではないかと思っていたが、今の大学に至っては四年生の一学期にしか写作の授業がない。要領の良い学生は少しの助言で作文能力が飛躍的に向上することもあるが、文法の間違いや表現の不自然さが中間言語的に固まっている学生は少なくない。一学期間、たった16回で「修辞」まで習得できるとはとても思えない。知識として得てもそれを実現できなければ意味がないのである。
 では、習得するためにはどうすればよいか。おそらくは何度も書くしかない。ここでもうひとつの時間の問題が発生する。作文は時間のかかる作業なのだ。
 今の中国の大学生は、ダブルメジャー、ダブルディグリーの導入により受講する科目が非常に多い。就職活動において日本語だけで勝負できなくなった昨今、日本語学科の学生といえども、日本語だけに専念するわけにはいかないのが現状である。学生にしてみれば、日本語作文になど時間を費やしたくないというのが本音だろう。もしかすると、外国語だから書かないというわけではないのかもしれない。卒業論文の季節になると「査重」のお達しが回ってくる。「査重」とは他人の書いた文章をそのまま使用しているかどうかを調べる、つまり「サイト記事のコピペ」の検査である。卒論指導を経験された方には覚えがあるかもしれないが、学生自身が書いた部分とあまりにも異なるため、コピーペーストしたことが一目瞭然という論文があまりにも多い。嘆かわしいことではあるが、こと外国語教育においては、学生ばかりを責められない。かつて「唖巴日語」といわれ、「読むことはできるが話せない」日本語教育が問題になっていた。その経験を踏まえ会話を中心としたコミュニケーション重視の教育が推進されてきた。現在、アニメなどサブカルチャーの効果も手伝って「唖巴」の汚名は返上されたといえよう。コミュニケーションの方面においてこの教育は成功したようにみえるが、一方で「読み書き」が置き去りにされてしまったようにも思える。結果的にそれに充てる時間がより少なくなったのではないだろうか。
 もとより、作文は修辞を学ぶ科目である。日本人でも苦しむ作文を外国人、それもほんの数年前まで「あいうえお」も知らなかった学生が短期間で習得できるのだろうか。学習期間、学習者の環境、教育方針、いずれの面においても「写作には時間がない」のである。
 このような環境の中で「中国人の日本語作文コンクール」は、まさに一筋の光だと思う。よほどの日本アニメヲタクでも日本語で日記を書き続けるとは思えない。何かきっかけがなければ書けないのが「作文」なのだ。しかし、残念なことに、しつこいほど働きかけてはいるものの、答えてくれる学生はまだ少ない。募集期間に写作がないため、授業に組み込むこともできず、また、団体応募もできない。今の私にとってこのコンクールは宝の持ち腐れである。たくさんの学生をこのコンクールに送り出せる諸先生が羨ましい。
 さて、授業の話に少し触れたいと思う。
写作での学習項目は、履歴書の書き方、ビジネスに応用できるメールや手紙の書き方、卒業論文の書き方、この三項目に絞っている。もちろん、提出された作文に関する誤用の解説も含まれているが、時間的にはこれが限界である。その代り、二年生の会話の時間に短くとも必ず日本語を書いて提出させるようにしている。会話なのに書くの?と思っている学生もいるかもしれないが、この段階で誤用を発見しなければ手遅れになりかねない。とにかく書くことに慣れることが写作の前段階であるように思う。
 また、視聴説の時間には、資料映像をもとにメールの書き方を学習することにしている。日本語と中国語ではメールの書き方で大きく異なる点がある。代表的な事柄として挙げられるのが、改行と依頼メールの最後のことばである。20から30文字程度で改行し、四行程度で一行空けるのが日本のメールの習慣だが、中国にはそれがない。何かを依頼するメールでは、中国語は英語と同じく感謝のことばで締めくくるが、日本語は必ず「よろしくお願いします」である。これらのことは、誰かが教えなければわからない、またはそうする必要を感じない事柄かもしれない。携帯電話のチャットやショートメールに慣れているせいか、宛先や差出人の名前を書くことにすら気づかない学生も多い。写作の授業を受ける頃には、既に学生は日本語でメールを書いている。授業を待っていては遅いのだ。
 作文の授業以外に作文をさせるというのは、何かズルをしているような気もするが、こんなことができるのも、常に理解を示してくれる対外経済貿易大学の先生方のおかげと感謝している。
 比較的長い文章、例えばスピーチコンテストや作文コンクールに出す原稿などは、できるだけ中国語文を同時に提出してもらっている。学生が何を表現したいと思っているのか、微妙なニュアンスは学生が書く日本語だけではわからないことがある。「こういう事が書きたいのだけど日本語でどう書けばよいかわかりません」と学生が部分的に中国語を書いてくる場合もある。私の作文指導の中でここが一番大切な部分だと思っている。なぜなら「書きたいことを書く」のが作文だと思うからだ。個人的には面白くない文章だと思っても日本語として完成すればそのまま応募させるのが信条である。
 修辞の良し悪しは既に学生に身についている。母語よりも外国語で上手な文章を書く人を私は知らない。「外国語の能力は母語の能力に比例する」というのが私の考えの一つであり、「母語を活かして外国語を学ぶ」ことが習得の近道だとも思う。また、外国語学習には「気づき」が重要だとよく言われる。作文は時間がかかる作業だが、とにかく書いて、たくさん間違えてほしい。間違いに気づかなければ正しい使い方はできないのだから。
 最後に、書くことが苦手な私だからこそ学生の皆さんに伝えたいことがある。「書くよろこび」とは書くという作業ではなく完成した時の充実感を言うのだと思う。毎朝鳥のさえずりが聞こえるまでパソコンに向かい、何度も何度も指導教官のダメ出しを修正し、苦しみぬいて修士論文を書いていた。でも、それを提出した時の解放感や充実感は今も忘れない。これから卒業論文を書くみなさんにも是非このよろこびを知ってほしいと心から願っている。

 

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