作文と論文のはざまで
重慶大学外国語学院外国籍講師 木村憲史 
 

 日本語教師歴も十年を超え、中国に赴任してからも、複数の大学にて教鞭を執らせて戴いた。その過程で様々な科目を担当してきたが、語学の四技能(読む、聞く、書く、話す)の核心に当たる「会話」や「聴解」、そして「作文」は、所が違えども毎年のように担当してきた。本稿は、私の中国の大学における「作文」の授業での指導経験を元に帰納法的見地から拙論を述べるものである。

 一般的に、授業で目指すべき作文能力とは何であろうか。それは正確な文法を駆使し、自分の書きたいことを読み手に伝わるように表現することであろう。これは日本語に限らず、どの言語を学ぶにしても必要とされる能力であるので異論はないだろう。では、中国の大学における日本語専攻の学生に対する作文の授業の最終目標は何であろうか。私は日本語で卒業論文を書けるようにすることだと思っている。
 日本の大学において外国語を専攻した場合、卒業論文の研究対象としてだけではなく、論文の使用言語そのものも、その専攻した外国語に義務付けられることはあまりないであろう。つまり、中国語専攻の学生であっても日本語で論文を書くことは少なくないということである。しかし、中国では、外国語を専攻する以上は、研究対象としてだけではなく、使用言語としても外国語を用いることを義務付けている場合が多いのである。少なくとも私が赴任した河南省や重慶市の大学では、論文は日本語で書くことが必須条件であった。このような環境では、作文の授業の最終的な目標は「作文の書き方」というよりもむしろ「論文の書き方」を如何にして習得させるかということになる。

 そもそも作文と論文の違いとは何であろうか。長文を駆使して自分の意思を表現するという点では、両者に相違はない。しかし、作文は自分の書きたいことを自由に書いても問題はないが、論文は自分の意見を他者にも共感してもらえるように努力する必要がある。つまり、作文は「主観的」であっても評価されるが、論文は「客観的」で、「論理的」でなければ評価されないということである。極言すれば、同じ文章でも、「作文」であれば褒められる文章が、「論文」では貶されることすら生じ得るのである。
 このように二律背反する要素を持つ「作文」と「論文」であるが、中国の大学で指導する日本語教師は、どのようにしてこの問題に対処すべきなのであろうか。勿論、大学では「初級作文」「中級作文」「高級(上級)作文」のように段階別に作文の授業が用意してある場合が多い。しかしながら、カリキュラムの設定が十分でない場合があり、授業内容は担当講師の裁量に委ねられやすく、担当する講師が別々の場合、意思の疎通や引き継ぎの問題が生じ得る。また、中国では大学生の就職難が深刻化しているために、四年生になると就職活動や進学準備に軸足を置き、結果として四年次の授業は出席率や意欲が他の学年よりも低くなる傾向にあるので、科目として存在していても有名無実化してしまう。結局、論文の書き方も満足に知らない学生達が、卒業するために論文執筆に取り組むことになり、論文指導担当の講師も一から論文の書き方を指導する時間は与えられていないので、論文作成に際して問題が生じることがある。

 このような問題が全ての大学で起きているわけではないだろうが、私の経験を通して考えてみると、決して少なくないように思われる。この問題の最善の解決策は、大学側がしっかりとしたカリキュラムの体系を作り、学生の能力の段階に応じて、「条件作文」や「パラグラフライティング」から始め、「自由作文」、「プロセスライティング」を経て、「卒業論文」へと指導できる環境整備をすることであろう。しかしながら、現実問題としては日本人講師が中国人講師と協働して大学のカリキュラム作りにまで参画できる例は殆どないため、現状のまま問題が先送りされる可能性が高い。そうなると、次善の策としては、作文の担当教師が限られた時間の範囲で、「論文」への道筋をつけられるように誘導する策を模索するしかないのである。

 以下は上記の問題意識を持ちながら、私自身が実践してきた作文の授業の一例である。平均的な学生の日本語能力は日本語能力試験N2(2級)合格レベルで、次の試験でN1を目指す段階の学生を対象にしたものである。
 先に述べた通り、「作文」という名の授業でありながら、「論文」を最終目的としている以上、「作文」から「論文」へと学生の意識付けを少しずつ変化させるように指導する必要がある。つまり、学生にはいつものような「作文」を書かせる授業を行いつつ、フィードバックの段階で「客観的」、「論理的」な文章を自然と目指すように誘導するのである。
 私が実際に学生に与えた課題は、「ペットにするなら犬がいいか、豚がいいか」という文章を書かせるものであった。なぜこのような課題を与えたのかというと理由は三つある。
 一つ目は、犬であろうが、豚であろうが、身近な動物であり、誰もが共通の意識を持ちやすい対象であるということである。中国で教師をしていると戸惑うことの一つは、同じ中国人で、同じ大学の学生でありながら、出身地や民族そして経済的な背景が異なると、共通点よりも相違点の方が多いことである。故に、「〜は中国ではどうですか?」という質問には注意が必要なのである。何故なら、バラバラの意見が噴出し、収拾がつかなくなる恐れがあるからである。その点から鑑みると、身近な動物は比較的共通の意識を持ちやすい。
 二つ目の理由は、殆どの学生がペットとして馴染みのある犬を選ぶことが容易に想像できることである。実際に、今までこの課題を異なる学校で、百人強の学生達に与えてみたが、九割以上の学生は「犬」を選び、「豚」を選ぶ学生は殆どいなかった。
 三つ目の理由は、「犬か猫か」よりも、「犬か豚か」にすることで、学生は、自身の経験や知識から犬の素晴らしさ、もしくは豚のペットとしての問題点を集中的に列挙するので、教師としてはフィードバックの段階で「主観的」な作文と「客観的」な論文の違いを指摘する際の格好の例が多く提供されるからである。実際に、この課題を与えられた学生の半分以上は、「犬の素晴らしさ」を切々と書くことに終始し、三割程度の学生は「犬の素晴らしさ」と「豚の問題点」を挙げる程度で、犬の問題点や豚の長所に言及し、比較考察するという「客観的な」文章を書く学生は殆どいなかった。

 さて課題を完了させ、文法的な問題点を洗い出し、フィードバックの段階に入ると、学生達には「君たちは、詐欺にあったことはありますか?」という疑問を投げかけることにしている。唐突な質問に学生達は、最初は戸惑うが、決して難しい質問ではないので、自らの経験の有無や、友人やインターネットを通じて知った伝聞情報などを口々に語ることが多い。そして、「詐欺師はどのようにして人を騙すのでしょうか?」と質問を重ねる。勿論、様々な意見が出てくるであろうが、一つの意見として「甘言を弄する」という内容が出てくる。そこで、学生達に「『あなたは可愛いですね。頭がいいですね。やさしいですね。だからお金を貸して頂戴。』という人にお金を貸しますか?」と更に問う。この問いに殆どの学生は否定的な態度を示す。それを踏まえ、「では、なぜあなたたちは、『犬は可愛いです。人間に忠実で賢いです。友達のように接してくれます。だから犬の方がペットとしていいです。』としか書かないのですか?良いことばかり書いていても、読む人には『本当かなぁ?』と疑われてしまいますよ。」と指摘するのである。

 そこで初めて、学生たちは、「主観的」な文章と「客観的」な文章の違いに気付き始めるのである。それを梃子に私はより客観的な文章を書けるように指導し、最終的には論文を書くのに相応しい能力の習得を目指すのである。
 紙幅の関係上、これ以上の詳細を記すことはできないが、このように「主観」から「客観」への流れを作ることが私の作文教授法なのである。

 


氏名;木村憲史
指導大学;重慶大学
学科名;外国語学院日語系
略歴;大学院修了後、就職したものの、従来から関心があった日本語教育に進路を定め、2005年に日本語学校の講師就任。
その後、中国に渡り、複数の大学で講師を歴任し、現在に至る。
日本語教師指導歴;
2005年より東洋言語学院奉職
2008年より鄭州大学奉職
2011年より太原理工大学奉職
2012年より重慶大学奉職


▲このページの先頭へ



会社案内 段躍中のページ : 〒171-0021 東京都豊島区西池袋3-17-15湖南会館内
TEL 03-5956-2808 FAX 03-5956-2809■E-mail info@duan.jp
広告募集中 詳しくは係まで:info2@duan.jp  このウェブサイトの著作権は日本僑報社にあります。掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。