日本語を学ぶ際にもっとも難しいのはやはり作文であろう。もちろん、会話も大いに難しいが(敬語となると、日本人でも正確に使いこなせる人は多くはあるまい)、会話の場合は、聞き取りは重要な点を聞き逃さなければ何とかなるし、話す時は発音や文法が多少おかしくても、相手に意図が伝わればよい。会話の教材を探すのも容易で、参考書がいくらでも出ている。聴力なら映画、ドラマやアニメなどで鍛えることができるし、話す方は相手がいないとやや不便だが、ネットによる相互学習もあることだし、日本人相手に練習すれば、短期速成も可能である。もちろん、一流の通訳になるのは至難の業だが、努力すれば、短期で上級レベルに達するのは夢ではない。
しかし、作文で上級レベルに達するのは非常に難しい。作文は会話と異なり、形として残るので、間違いが目立ってしまう。だから可能な限り、文法の正確さを目指さなければならないが、助詞などを完璧に使いこなすのはかなり難しいことだ(日本人でさえ怪しい人がいる)。さらに、文法が正確であっても、中国語を直訳した感じの不自然な文章をつい書いてしまいがちである。また、達意の文章となると、母国語でそれが十分に書けない人は日本語でもやはり書けないだろう。だから、正確無比で簡潔明瞭な文章を書くのは、日本語を何十年も学んだ研究者ですら容易なことではない。
それでは、どうやって作文を指導すべきか。私の考える作文指導の最終目標は、とにかく間違いが少なく、意図がきちんと伝わる文章が書けるようになることである。だが、まさに「言うは易し、行うは難し」で、作文指導は容易ではない。一番困るのは教材である。作文をテーマとした教科書はそれほど多くないのだ。しかも、会話の本と違って、文法書に類するものなので、面白い挿絵もないし、やや難しくもあるし、専門家や好事家以外、読んで面白い本とは言えない。学生にとっては非常に取っつきにくい本なのである。さらに分量もかなり多く、要点がどこにあるか、学生には摑みにくいだろう。だから、教師としては、そうした本をいかに効率よく教えるかに気を配らねばならないのだ。
私は作文指導については三段階を置いている。まず第一段階は、文法を中心に教える。それで、簡単な感想文は書けるようになるだろう。第二段階は、感想文の域を脱した、作文コンクールに出すに値する作文が書けるようになることである。第三段階は、論文が書けるようになることだが、これは今回のテーマからは外れるので述べない。
第一段階は、文法中心と言っても、文法をすべて教えていたら時間がなくなってしまうので、基礎的な表記法、助詞の使い方、敬語の使い方など、作文に最低限必要な知識をざっと教えることにしている。それと並行して学生に作文を提出させて、それを直して返すことを繰り返す。その際に、学生が間違えやすい個所を抽出してデータを集める。中国人が日本語作文で間違えやすい個所はどこかを分析した研究書がいくつかあるので、参考にはしているが、概して量が膨大なので、すべて教える時間はない。だから、学生の作文から誤りのデータをとって、そこから頻出順に教えたほうが、効率が良いと思う。それらの誤りがなぜ誤りなのかを解説することで、学生が同じ間違いを再び冒す可能性はずいぶん低くなる。
第二段階は、感想文から作文コンクールに出すに値する文章を目標とするが、それは、学生は感想文や「模範的」な作文には長けているが、それ以上のレベルの文章が得意でないことが多いからだ。もちろん、それは論文と言うには程遠いレベルである。
感想文なら気ままに所感を記せばよいので、出来事を紹介して、楽しかった、悲しかった、と主観的に記せば事足りる。だが、その上のレベルの少々論理的な文章となると、すぐに「模範的」な作文になってしまうのである。「模範的」な作文とは、書店で売っている〈模範作文集〉のなかにあるのとそっくりな作文のことだ。こうした本には、よくある例を一つ挙げて、ありきたりの紹介をして、もっともらしい教訓話で締めくくる形式の文がたくさん紹介されている。〈模範作文集〉を参考にして、インターネットでちょっと調べれば、例はいくらでも見つかるし、その例を紹介したあと、最後の締めくくりの立派な言葉につながる文章を差し挟めば、簡単に作文が出来上がる。
たとえば、「災害」というテーマで書くとすると、どこかで起こった災害を調べて紹介する。困っている人が大勢いるので、そのための救助や募金活動について触れる(事例をいくつか示す)。最後に、困っている人には手を差し伸べるべきである、などと記す。また、たとえば「中日友好」というテーマなら、かつて両国間には悲しい戦争があった。その後、両国は一衣帯水の隣国として、経済面や文化面などで協力関係にある(データなどで示す)。わたしたちはこの協力関係を一層推し進めていくべきだ、と締めくくる。
もちろん、こうした作文は万人受けする正しいものだが、悪く言えば、頭をひねらなくても書けるものだ。たしかに具体例があり、その解釈もあるという構成なので、「模範的」な作文として申し分ないのだが、いかんせん個性に欠けており、〈面白み〉に欠けるのである。こうした作文でよくない点は、作者と何の具体的な関係もないことなのだ。だからこそ、万人が一様に、機械的に書けるものなのである。せめて、抽象的で立派な言葉で作文を締めくくる時に、自分はどんなことができるか、どんなことをしたかを具体的に書くべきではないか。
作文コンクールに出すのであれば、〈面白み〉がやはり必要である。そもそも、誰もが書ける「模範的」な作文であれば、内容も構成もそっくりな作文が全国から何百と集まって来ることだろう。そんな〈面白み〉のない作文は読んでもらえないのだ。作文というものは、読んでもらえるものでなければならない。
〈面白み〉といっても、面白い話を書けばよいということではない。作文に個性があり、書いた人がどんな人なのか伝わってくるものを書いてほしい、ということなのだ。それには、インターネットですぐに探せるような例ではなく、自分が体験した例を出すことだ。そして、それにお決まりの感想と結論をつなげるのではなく、その体験から感じたこと、考えたことをしっかり記すことが必要だ。とくに、体験から感じたことで、なにか驚きがあったはずである。その驚きによる考えの変化を記せば、構成が豊かになるし、どのような考えなのかが強調されてよいだろう。その変化の発見は、作者のみならず読者にとっても刺激となるので、読ませる作文になるのだ。
構成をどのように立てればよいかについては、帰納法、演繹法、弁証法といった論理学の術語を教えて参考に供することにしているが、実際のところ、書いてみないとなかなか身につかないもので、そういった構成の工夫は二の次でよい。なにより、何か自分が体験したことで深く感じ、考えたことを言葉にすることが重要だ。
作文コンクールはその点、読者に向けて作文を書くという良い訓練になると思う。受賞作を読むのも非常に有益なことである。どのように個性を表わしているか、その技術を範として習得すれば良い。自分の考えを人にはっきり伝えるためには、自分の考えをしっかりさせなければならない。そして、それを魅力的に説明するという一連の訓練は、その後の卒業論文でも、また仕事や生活でも大いに役に立つことだろう。だから、私はなるべく作文コンクールには参加するように呼びかけるようにしている。