最優秀賞(日本大使賞)受賞作品 幸福の贈り物 関 欣(西安交通大学) 2010.12.18北京日本大使館にて 我が家の机の上には、黒いテープレコーダーがいつも置かれている。その表面に書かれた日本語の文字はもうすっかりかすれてしまっている。このテープレコーダーは、八〇年代に父が若いころ、技術員として日本に派遣された時に買ったものだ。当時の中国は技術力が低くて、家庭用テープレコーダーはまったく普及していなかった。だから、父が日本で買ってきたナショナルのテープレコーダーは家族を驚かせた。そして、その時は思いもしなかったが、それは私とおじいさんとの距離を大いに縮めてくれたのである。 一九八五年、父は日本の愛知県に一年間派遣されることになった。想像もつかないほど遠いところへ息子が行ってしまって、おじいさんは毎日心配していた。田舎のおじいさんの家では電話の状態が悪かったので、息子の声を聞くことはできず、ただ一ヶ月に一度手紙を受け取るだけだった。その頃、おばあさんが急逝したために、おじいさんは一人暮らしになり、寂しい毎日を送っていた。父も日本で父親のことを心配していた。そんな状態で一年が過ぎて、父は無事帰国した。父は何を思ったのか、おじいさんのためにテープレコーダーをお土産に買ってきたのである。 テープレコーダーの中にはテープが入っていた。それには、父が日本の生活で出会った面白い出来事や印象的な人についての話や、心のうちに秘めていたおじいさんに言いたい話などが吹き込まれていた。その後、おじいさんはテープレコーダーの使い方を覚えて、息子のテープを繰り返し繰り返し聞いて、手元から離す暇がないほど気に入ったのである。テープレコーダーはそれからも大活躍して、一年後に孫娘の私が生まれた時も、おじいさんは嬉しくなって私の泣き声や笑い声を録音した。そんな平和な田舎での生活は、私が六歳になるまで続いた。その後、私は両親と西安市の実家で暮らすことになったが、田舎のおじいさんとはあまり会えなくなってしまった。おじいさんは寂しくなると、いつもぴかぴかに磨き上げたテープレコーダーの父の声と六歳まで録りためた私の声を聞いて、懐かしんでいたそうだ。 しかし、私が中学一年生の時、おじいさんは病気でなくなってしまった。そして、テープレコーダーは私が譲り受けることになった。葬儀が落ち着いた頃、私はテープレコーダーを聞いてみた。三歳の時の私の声、六歳の時の私の歌声など、どれもこれも懐かしい思い出だ。テープが終わったので、スイッチを切ろうとしたら、突然、おじいさんの声が流れ始めた。「シンちゃんにとても会いたいなあ。シンちゃんは勉強が忙しいからしかたないね。シンちゃんがそばにいなくなって、おじいさんはつらくてたまらなかったよ。でも、このテープレコーダーがあってよかった。父さんにありがとうって伝えてね・・・」その温かい声を聞いていたら、涙がどうしても止まらなくなって、ワアワアと大声で泣き出した。おじいさんが生きているうちに、もっと会いに行けばよかったと後悔してやまなかった。 しかし、今の私は幸いだと思っている。おじいさんはもう戻ってはこないが、おじいさんの声、孫娘への愛はこの小さなテープレコーダーの中で永遠に保存される。これを聞くと、おじいさんがいつも私の近くにいるような気がする。テープレコーダーは、私たちにいつでも家族の愛がそばにあるという幸福感を与えてくれた。ナショナルの創業者、松下幸之助は「利益」より「人々の生活を潤すこと、人々の生活向上に奉仕すること」が企業活動で一番重要なことだと述べている。生活のゆとりを与えて家庭に幸福をもたらすのに、日本のさまざまな製品は世界中で貢献してきた。父の影響を受けた私は、今日本語を学習しているが、将来、日中の人々に幸福をもたらす友好の架け橋になりたいと思っている。それが、テープレコーダーのお返しになれば幸いである。 (第六回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集『メイドインジャパンと中国人の生活』より転載) |