2019.4.3放送 NHK WORLD JAPAN「Direct Talk」 日本語版概要 きょうのゲストは、日本と中国の交流事業を20年以上も進めている段躍中さん。 段さんは1991年に来日後、日中関係専門の出版社を設立。中国人による日本語作文コンクールをはじめとする、草の根の交流活動を続けてきました。 隣同士の中国と日本は緊密な経済関係の一方で、領土問題など対立も抱えています。真の相互理解を促進するには、どうしたらいいのか。地道な活動を続けてきた段さんの知恵に耳を傾けます。 東京都内にある小さなオフィス。日中友好を追求し続けるユニークな出版社です。 段さんが1996年に設立し、これまで360点を出版。 日中両国の政治・経済・文化など、幅広い分野をカバーしています。 自分の意思とペンで、中国人の良い点を日本人に伝えられるのが とてもうれしいです。 日中関係が良くなることは、アジアそして世界の発展にとって、非常に大事なことです。私たちの力に限りはあるけれど、貢献を続けたいと思います。 段さんは1958年、中国南部・湖南省の農村に生まれました。とても貧しい村でした。 少年の頃、村の唯一のメディアは有線放送でした。 あるとき私は村の出来事を書いて、放送局に送りました。そうしたら、私の投稿が放送で読まれて驚きました。 最後に名前も読み上げられ、私はとても感動し、励まされました。 この少年時代の出来事が、段さんの原点となりました。段さんは、さまざまなメディアに投稿をするようになりました。北京に行って学業を終えると、1987年、中国共産党の若手エリート組織が発行する機関紙「中国青年報」の記者となったのです。 2年後の1989年、若きジャーナリスト・段さんは、世紀の出来事に遭遇します。民主化を求めて、数十万にも上る学生や市民が、天安門広場を連日、埋め尽くしたのです。 当時、私は編集室で夜勤をしていました。仕事が終わるのは午前2〜3時でした。 天安門広場に行って学生に交じりました。まだ若く、学生っぽく見えました。 私だけでなく、編集部の多くの同僚も現場に行きました そして、私たちが現場の状況を把握して原稿を書くと、編集長と対立するようになりました。 当時、われわれ編集部員は基本的に、学生と同じ立場で、学生を弁護していました。 もちろん編集長は、党中央と同じ立場でした 私たちはストライキを起こしたことも、何度もありました。 私は現場にいる人間として どれだけ努力しても変えられないことがあると感じました。 突破できない壁があると感じました。新たな道を探さなければ——と考えたのです。 模索する段さんの転機となったのは、妻のひと言でした。 社会学を勉強するため、既に日本の大学に留学していた妻が、段さんに日本に来るよう提案したのです。 私は非常に躊躇していました。まず年齢です。もう33歳でした。 また、日本語もできませんでした。そして、私は本当に貧しかったのです。 「3ゼロ青年」という状態でした。日本語ゼロ・人脈ゼロ・カネもゼロ。 そう考えると、日本に行くのは心細かったのです。 妻は私に言いました。「記者として 外の世界を見てみれば?」 妻がいることを頼りに、日本行きを決断しました。 天安門事件から2年後の1991年、段さんは来日しました。 日本語が「はい」しか言えなかった段さんは、なかなか仕事を見つけることが出来ませんでした。ようやく、駅の構内にある小さな居酒屋で、皿洗いに雇ってもらいました。 客の少ない時間帯は、主人が新聞を教材に日本語を教えてくれました。 ある日、私は一面に載っていた約1000字の記事を、最初から最後まで間違えずに、読み上げることが出来ました。 主人が、我がことのように喜んで、私の大好物だった生姜焼きを作って食べさせてくれました。 このとき感じた、日本人の優しさと人への思いやりを、今でも忘れられません。 これは いまの私の原点と言っても、過言ではないです。 民間の交流であり、心と心の交流です。 異国で新たな生活を始めても、ジャーナリストとしてのマインドを持ち続けていた段さん。日本語の勉強のために読み始めた新聞で、衝撃を受けました。 政治を風刺する漫画には、驚きました。 首相や政治家を批判する漫画が、毎日、新聞に載ってるなんて。 想像もできませんでした。 「言論の自由」とは、こういうものなんだと思いました。 その一方で、外国人、特に在日中国人に関する報道にマイナスの面が多いことも気づきました。 在日中国人の1人としてショックでした。 社会面は、毎日のように中国人の犯罪記事ばかりで、心が痛みました。 でも、実際は日本社会に貢献している中国人が、私の周りにも多くいたんです。 段さんは、自ら筆を執りました。中国の実際の姿を知ってほしいと、新聞への投書を始め、そして自前の出版社を創業するに至ったのです。日本に来て6年目のことでした。 しかし、尖閣諸島などを巡って日中関係は悪化の道を辿ります。反日デモが報道されると、日本では、中国が反日一色になったかのように受け止められました。段さんは、報道現場の生の声を届けなければ……という思いを強く抱きます。 中国にいる日本メディアの記者たちは、現場で何を思って、どのように中国を報道しているのか。 日本のメディアは、中国についてマイナスの報道ばかりしているイメージがあります。 中国にいる記者の本当の声を一冊に集めて、日本人に読んでもらおうと思いました。 印象的だったのは、記者が現場で感じる中国と、編集部が持つ中国のイメージの差が大きかったことです。 だから記者たちは、かなり葛藤を抱えていました。 こうして生み出した本、「日中対立を超える発信力」。人目を引く話題ばかりが大きく取り上げられがちなメディアの状況の中で、悩みながら中国の姿を模索し伝えようとする記者たちの本音が描かれています。 2018年12月、北京の日本大使館。日本語を学ぶ中国人学生が、全中国から集まりました。 「日本語作文コンクール」の授賞式が開かれたのです。 段さんが主催し、今回で14回目。 中国全土の200以上の大学などから、4000本以上の応募がある大規模な大会です。 段さんは、中国人の若者の声を直接日本人に届けようと、優秀作品を第1回から毎年、出版して紹介しています。また、相互理解の助けになる募集テーマを毎年、苦心して設定しています。 中国人が大声で喋るのは何故か」というテーマで、作文を募集したこともあります。 これは かなり評判が良かったです。 大声で話すことは必ずしも悪いことではなく、場所や状況によって違うし、中国人を理解してもらう一助になります。 寄せられた作文のお陰で、「中国の若者はこう考えているのか」と多くの日本人に分かってもらえました。 これは、優秀作品の1つ。初めて日本を訪れた学生が、82歳のボランティアのガイドに、中国語で話しかけられたときのエピソードです。そのガイドは、65歳のときに「まだ若いから」と中国語を勉強し始めた人で、片言の中国語で一生懸命、彼女を案内してくれました。彼女は感動し、「日本は高齢化社会で活気がない」という先入観が消え、「頑張る高齢者が多いのが日本の魅力」と考えた――という作品です。高齢化が進む日本を、高齢化社会を迎える中国の若者ならではの問題意識で捉えたエッセーです。 中国では、大都市の北京や上海に日本語専攻の学生が多いですが、地方で日本語を学んでいる学生たちにも機会を与えなければいけません。 だからコンクールは中国全体を対象にして、誰でも無料で参加できる形にしました。 2018年の日本語作文コンクールで優勝した黄安h(Anqi Huang)さんが、中国から来日しました。彼女は、1週間の東京訪問を副賞として得たのです。 私はもうすぐ大学院に入ってジャーナリズムを専攻します。日本語とジャーナリズムの技能を活かして中日友好に貢献していきたいです 日本の日中友好団体は高齢化が進んでいます。 一方、中国では日本語を学ぶ学生が沢山います。 どうやって彼らに先人のことを学んでもらい、日中友好の事業を拡大してもらうのかが重要です。 揺れ動く日中関係の中、草の根の相互理解のため奔走してきた段躍中さん。次の夢は、交流の拠点づくりです。 できることなら、日中の交流サロンのようなものを作りたいと考えています。 みんなで中国茶を飲み、中国語を学んで、中国の本や新聞を読んだり、映画を観たり……。 ここに来ると中国の情報が何でも手に入る、そんな場所を作りたいと思っています。 インターネットがどれだけ発達しても、情報社会がどれほど進んでも、顔を合わせ、目を見るコミュニケーションが絶対に大切です。メディアを通して相手を知るよりも良い効果があり、役立つと思います。 メディアと、顔を合わせることと、両方の交流がある場を作るために、尽力していきたいです。 ※ “初心を忘れない”——自分の原点を忘れないという意味です。 日本に来た頃、多くの日本人のお世話になりました。 出版や日中関係の事業をする時にも、日本人に助けられてきました。 出版人として、またジャーナリストとしての経歴を生かし、日中友好と相互理解に貢献していきたい。 これこそが私の原点で、初心です。いつまでも忘れません。 |