野中広務氏が死去、日中関係の発展に尽力

――中国の趙啓正氏が追憶

 

 

 

 

【日本僑報社発】内閣官房長官や自民党幹事長などの要職を歴任し、日中関係の発展にも尽力した野中広務氏が1月26日、京都市内の病院で死去した。92歳だった。

生前は数回にわたり中国・南京を訪れ、「日本は侵略の歴史を深く反省、認識し、決着を付けなければならず、間違った歴史認識を21世紀に持ち込んではいけない」と語っていたという。

なお、趙啓正氏は日本僑報社から『中国式コミュニケーションの処方箋』(呉建民氏との共著)http://duan.jp/item/185.html を刊行している。

こうした折、国境を超えて親交を深めていた中国の元国務院新聞弁公室主任、趙啓正氏による追憶の記が『人民中国』ネット版に掲載された(1月30日付、文=黄友義氏、王衆一氏)。

 以下にご紹介(一部転載)するとともに、野中氏の生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

 

■良識と責任感を持った日本の政治家を追憶する―趙啓正氏の目に映った野中広務氏

(『人民中国』ネット版より、2018年1月30日付)

黄友義 王衆一=文

 

最近、中日両国の広い地域が大雪に見舞われている。週末だった126日、寒風と共に、ある悲しい知らせが日本から中国に伝わってきた。92歳の日中友好人士、元自民党幹事長の野中広務氏が同日午後、京都の某病院で亡くなった。中日関係に注目している多くの人々がこの知らせを聞いて、重い気持ちで週末を過ごした。元国務院新聞弁公室主任の趙啓正氏もその中の1人だった。彼は夜通し電話や微信(WeChat、中国版LINE)を通じて、われわれ2人を含む多数の対日外交や文化発信の専門家と連絡を取り、中日関係に対する考えを踏まえて、野中氏との交流にまつわる一つ一つのエピソードを思い起こした。趙氏の追憶に伴って、良識と責任感を持った日本の政治家の姿がわれわれの眼前に生き生きと浮かんできた。このような友人を失ったことは中日友好事業にとってまことに重大な損失である。

90年代初め、趙啓正氏は上海副市長に任命された。彼は上海市の対外事務、海外貿易、浦東地区開発といった重任を背負い、後にまた国務院新聞弁公室と全国政治協商会議外事委員会の主任も歴任し、30年間にわたり、何度も日本を訪れ、日本の政界で活躍する野中氏とさまざまな場面で会い、交流を深め、年の離れた友人同士、異国の知己となった。中日関係発展の段階ごとに、野中氏が示した政治家としての良識と責任感が趙氏に深い印象を残した。

 

71年、野中氏は当時中国に対する侵略戦争に参加した元日本軍兵士を率いて南京を訪問した。後に彼は趙氏に会ったとき、その南京訪問が自分に与えたショックを語った。野中氏は次のように話した。老いた元日本軍兵士は南京の城壁の上に座り、現在から過去を追想し、良心の呵責が心に湧き起こった。中には城壁に上がるとめまいを感じ、体の具合が悪くなった元日本軍兵士もいた。彼らは多分これは当時犯した罪の報いだろうと言った。元日本軍兵士たちは皆、当時、南京大虐殺が起こったという事実について後悔してやまなかったと野中氏は語った。

98年、野中氏は再度、何人かの若手政治家と二十数人の記者を連れて南京を訪問した。南京大虐殺遭難同胞記念館で、彼は大勢のメディアに向けて、日本は侵略の歴史を深く反省、認識し、決着を付けなければならず、間違った歴史認識を21世紀に持ち込んではいけないと率直に語った。その言葉が新聞で報道されると、日本の右翼分子が銃弾の入った封筒を野中氏の家に送って恐喝したが、彼は全く揺るがなかった。……

 

※ 以下、こちらのリンク先をご覧ください。

「良識と責任感を持った日本の政治家を追憶する―趙啓正氏の目に映った野中広務氏」

『人民中国』ネット版(2018年1月30日付)

http://www.peoplechina.com.cn/zzjj/201801/t20180130_800115688.html