9回中国人の日本語作文コンクール最優秀賞(日本大使賞)には

百人一首を通じた国際交流の経験を書いた李敏さんの作文

 

木寺大使と李敏さん。段躍中撮影

 

第9回中国人の日本語作文コンクール授賞式・日本語スピーチ大会が12日、北京にある在中国日本大使館の大ホールで行われた。同作文コンクールは、日本僑報社と日中交流研究所が主催、日本外務省、在中国日本国大使館、中国日本商会、北京日本人会などが後援、株式会社ドン・キホーテと朝日新聞社、東芝国際交流財団などが協賛したのだ。

最優秀賞(日本大使賞)には、百人一首を通じた国際交流の経験を書いた李敏さん(国際関係学院)の作文「カルタ・カンタービレ/百人一首ラブストーリー」が選ばれた。作文全文は以下の通りである。

私は今、大学院の1年だ。大学3年生の時、大学院に進学することを決めた。第一志望校の受験について先輩に聞いてみた。古典の問題が出るという。しかも、その古文の試験問題は百人一首から出題されるとわかった。ショックだった。和歌が百首…あまりに多すぎると感じたからだ。しかし「憧れの大学院に入るためだ、覚えるしかない!」。大学3年の9月、この悲壮な決心が私と百人一首とのあまりにもロマンチックではない出会いだった。それからは毎日、百人一首との「胸ときめかない」1時間のデート、読んでは意味を調べて覚える地味な付き合いを続けた。

 最初、百人一首は「カミヨモキカズ」というような音でしかなかった。その和歌の一部が「神代も聞かず」と聞こえるようになり、そして、半年後はさらに「神様の世だったときですら、聞いたことがないほど」の美しい紅葉の風景を思い浮かべ、「カルタ・カンタービレ(=歌うように)」、まるで歌声のように耳に響くようになった。私は百人一首の世界の虜(とりこ)になっていた。

 さらに、百人一首と付き合って、百人一首の新たな一面を知ることができた。それは、競技かるただ。競技かるたは、日本の伝統的な遊びで「畳の上の格闘技」と言われている。百人一首の暗記力を競うものであるが、競技かるたとなると、それと同時に札をとる、瞬発力・精神力が必要とされる。「自分が今まで学んできた百人一首がこんなふうにも楽しめるんだ! すご〜い! やってみたいなぁ!」と思ったのだ。

 でも、さすがに、練習所など、あるはずもなく、畳のある部屋なんか、夢でしかない。私はひとりぼっちで、床の上に蓆(むしろ)をひろげた。蓆は裏返して使うと、なんとなく、日本の畳の感じがするからだ。ルールをネットで調べながら、パソコンで読みを流し、一人で札をとる練習を続けていた。私には本来「好き」でありさえすれば、どんな困難があっても、やりぬけるという信念がある。

 今まで努力した甲斐があって、私は素晴らしいチャンスに恵まれ、中国代表として、百人一首国際かるた大会に出場し、蓆の上から、本物の畳の上に躍り出た。

 「和歌の世界」でしか見たことのない和装、袴(はかま)を身につけ、百人一首を読み上げる美しい声が耳に響き、目を閉じると、本物の畳の香りがした。夢みたいだった。そして、各国の選手たち皆と一緒に、一生の忘れられない思い出をたくさん作ったのだ。

 日本の方々からの至れり尽くせりのおもてなし。

 ずっと憧れていた名人やクイーン(カルタの上級者)からの経験談。

 小4のクィン君(米国選手)と対戦した時の、小学生だと思えないほどの真剣さ。年配の大口さん(タイ選手)と対戦した時の、札を取った瞬間、顔に浮かんでいる赤ちゃんのような笑顔。など、など…。

 心から百人一首を愛している方々とお会いし、話し、感動と感謝の気持ちがあふれていた日々だった。

 皆一人一人が、それぞれの国籍を持ちながら、今、かるたで心がつながり、気持ちが一つとなった。「言葉には国境はありますが、心の交流には国境はありません」。これはまさに、文化の力なのだ!

 かささぎネットでルールを調べていた時、北京にかるたのサークル「北京鵲橋(かささぎばし)かるた会」があると知り、その名を見た一瞬、心の琴線に触れられたような気がした。

 「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」。牽牛(けんぎゅう)と織姫がかささぎのおかげで、彼らのストーリーを続けてきたという美しい歌で、百人一首のなかでも、私が一番好きな和歌だ。私も、百人一首かるたを含む文化交流を通して、共通の興味を持っている友達をつくることによって、微力ながら、中日友好や世界友好のために、一羽の鵲となりたいのだ。今回の貴重な経験や、楽しい思い出、これら一つ一つを自分の宝物に、このお別れを新たな始まりとし、また会えることを信じて頑張っていきたいと思う!

 みんな、一緒にかるたやりませんか?

(日本僑報社『中国人の心を動かした「日本力」』より)