日本人ジャーナリストの特別寄稿

2年ぶりの中国、変化の探訪(4)互相依靠の精神

 

丹陽開発区で土地造成の進む工場団地予定地。杉山直隆氏撮影

 

鎮江、そして揚子江を挟んですぐ隣りの揚州は、古くから日本とのつながりが深かった。奈良時代に日本に来た鑑真は揚州の寺と縁が深かったし、鎌倉時代には禅宗を学ぶため中国に渡った臨済宗の栄西が鎮江に足跡を残している。室町中期になると水墨画家で禅僧の雪舟がこの地で絵を学んだ。鎮江は呉の文化の発祥の地だった。

丹陽市。人口百万人の鎮江第一の衛星都市で、新幹線鎮江駅からクルマで15分くらいのところにあるが、こちらは打って変わって全くの開発途上、そこら中で工場用地建設の土煙りが上がっていた。

この光景を見て、かつて1970年代初め、筆者が新聞社に入社当時、茨城県水戸支局に配属され、取材のためよく通った鹿島臨海工業地帯の建設現場を思い出した。人の背丈を超えるような巨大な車輪のタイヤを付けた大型ブルドーザーが地響きを立てて動き回り、夜になれば、あちこちの建設作業員の宿舎の回りは酒くさい男たちが大声を張り上げ、警察官が出動するけんかが起きることも始終だった。

丹陽には、そんな開拓、開発の匂いがあった。最近、今後をあて込んだ初めての日本食レストランが開業したとも聞いた。その街の市街地から離れた丘陵地帯に2007年に操業を始めた、自動車部品メーカー、ダイセル化学工業(本社・大阪)の工場があり、ジェトロ(日本貿易振興機構)の参観団とともに訪ねた。製品は自動車のエアバッグを膨らませるインフレーター。クルマの衝突ショックを電気信号に変え、火薬を小爆発させて膨らませる装置。火薬を使うため、市街地での立地は難しいという。

2007年に操業を始め、今では中国人従業員は800人。製品は中国に進出した日本の自動車メーカーのほか、韓国メーカー向けも伸びていると聞いた。日本人7人を含めた社員を束ねる日本人工場長は広い社員食堂で「中国人の定着をどう確保するかが日常の課題」と参観者に説明したが、5年後には生産量を倍増させる計画と話した。

丹陽市の開発区責任者は「中国有数の自動車部品生産基地にしたい」と夢を語った。地元で将来4万人の熟練労働者を育てるため、毎年500人を日本の九州に研修生として送り、養成を始めたという。外国の自動車メーカーは、多く上海、天津、広州、北京などに工場を立地している。中国国内の二輪車を除く自動車保有台数は約1億台と8千万台の日本を超えている。5年に一度、新車に買い替えるとして、年2千万台の販売が見込める。日本国内がせいぜい8-9百万台だから、実現すればものすごい数だ。

東日本大地震以降、自動車部品の国際的なサプライチェーン(供給路)の実態が明らかになった。東日本の部品工場で生産が止まれば、世界各地で欠品が出て工場が止まり、とくに日本メーカーは経営的にも大打撃を受ける。もはや内向き指向では乗り切れない時代になっていることが、垣間見えた。供給路を国際的視野で整備する時代になった。

丹陽市は、日本の中小企業の自動車部品企業のため、200社の誘致を目標に賃貸工場の建設にも乗り出した。中小企業にとって海外への工場進出は、大変な決断を要する。現地の人脈もなく、資金も心配だ。技術はあるが、国内市場の伸びが止まり始めた日本、一方、市場はますます大きくなると見込めるが、技術水準が追い付かない中国。今後、必要なのは、「互相依靠」――この回の表題に掲げたが、日本語で言うなら「持ちつ持たれつ」、お互いの特徴を生かし合って協力する、といった関係だ。

政治が絡むと日中関係も難しい面が出るが、経済の歩みはそんな個々の勝手な事情を待ってくれない。乗れないところは、乗り遅れる。

日中の経済関係は大きな節目に来ている。長い日中の交流の歴史を振り返っても、協力し合ったときに、いい歴史が生まれている、そう感じる。

 

マルコポーロも訪れた記録があるという鎮江の街並み保存地区。杉山直隆氏撮影

 

 

プロフィール

杉山 直隆(すぎやま・なおたか)  

1968年朝日新聞社入社、盛岡、水戸、横浜勤務を経て、東京本社経済部記者。証券、貿易、自動車等機械、銀行、諸官庁取材を経験。思い出に残るのは、伊藤忠・安宅産業など商社合併、ロッキード事件、自動車の対米輸出自主規制交渉、1980年代の円切り上げをめぐる日米金融自由化交渉、銀行の海外進出・再編など。新聞・テレビの連携業務にも携わり、テレビ朝日映像常務を務めた。

神奈川県鎌倉市在住。日中関係のあり方・発展に関心を持つ。