87年前 中国の関東大震災支援に、日本から驚きと感謝の声 「日本僑報」によると、3月28日付けの環球時報に掲載された中国語記事「中国の関東大震災支援に、日本から驚きと感謝の声」は、多くの注目を浴びた。より多くの日本人読者に読んで頂くため、日本語に訳した。 関東大地震は、1923年(大正12年)9月1日、神奈川県を中心とする南関東に発生したマグニチュード7.9の巨大地震。 この大地震は後に関東大震災と呼ばれ、日本に甚大な被害をもたらした。地震、津波、土石流、火災の被害は1府8県にわたり、死者・行方不明者は10万人余り、被災者は100万人を超えた。当時の中日関係は、第一次世界大戦後の日本軍による青島占領や五・四運動の勃発のため緊迫していたが、中国は人道主義と国際主義の精神から惜しみなく支援の手を差し伸べている。 地方軍閥による義援金・救援物資の募集 文献の記載によると、孫文はただちに摂政宮裕仁皇太子にお見舞いの電報を送り、中華民国北京政府もすばやく対応したという。『申報』、『民国日報』、『晨報』、『大公報』は揃って一面トップで日本の震災を伝え、同情の意を表明した。9月3日付けの『晨報』は、社説で、「わが国国民は、早期に救済支援組織を立ち上げ、少しでも多くの義援金を募り、大人数の救助隊を派遣し、被災者救済に駆けつけるべき……」と呼びかけている。 当時の中華民国北京政府は、黎元洪が大総統の地位を追われ離京し、内務総長の高凌霨が代理国務総理を務めていた。「奇禍」に見舞われた日本を救済するために、3日に特別会議が招集されると、パリ講和会議で日本の青島占領を反対した顧維鈞外交総長はわだかまりを捨て、提議した。「わが国は、隣人の災難は分かちあうという教えから傍観は許されない。政府は、国民が協力して義援金を集め被災者を救済するよう働きかけるべきだ」外交部は張元節駐日代理公使に実態調査を電報で命じ、日本政府にお見舞いのメッセージを送った。 同時に、各閣僚は日本支援に関する決議を表決後、大総統令を発布。財政部は銀貨20万元を日本政府に送金し、地方長官は地元の名士たちを説得し、広く寄付を募った。また食糧や医薬品及び赤十字の医療支援チームを乗せた船の派遣を決めるとともに、食糧輸出禁止令を解除する。李鼎新海軍総司令は、食糧を運ぶ2艘の軍艦を横浜に急がせた。その三日後には、財政部の許可証で、中国から日本へ向けた救援物資はすべて輸出税免除となった。 9月8日、外交部は日本災害支援臨時委員会を発足させ、関連事項を取りまとめる。曹錕直魯豫(現在の山東省・河北省・河南省)巡閲使が寄付した5万元のうち、3万元は日本人、残りは在日華僑と留学生向けだった。9日には呉佩孚両湖(湖南省・湖北省)巡閲使が、日本に対する義援金と支援物資の提供を、全国に一斉発信。中国全土の重要な政府機関に、日本を援助するよう電報で呼びかけた。親身で説得力ある電文には、日本の地震に対する同情と関心が、珠玉の言葉でつづられている。 関東大震災が発生した時、東北軍閥の張作霖は、奉天での武器工場拡張や東北大学の開校で手元不如意だったが、3日には小麦粉2万袋と牛100頭を日本に贈ることにした。これは当時としては少なからぬ金額である。 各界がこぞって参加 政府のほかに、中国各地の各界の対応もすばやかった。北京では、蒋夢麟北京大学学長が、日本の東京帝国大学及び各学校あてに、「大惨事の知らせに深い悲しみを覚えています。同じ教育界の一員として心からお見舞い申し上げます」と電報を送った。北京銀行の労働組合は、10万元を調達し米・小麦3万石を買い入れ、すぐさま日本に届けている。北京中国画学研究会の会員たちは、連絡を取り合い準備を進め、中央公園(現在の中山公園)で、書画のチャリティー展を開催した。当時の有名な大家の書画も多数出品され、初日の28日だけで数百点を売り上げた。また義援金を集めるために、園遊会や演芸会、展覧会も催された。 最も支援ムードが高まったのは上海である。9月2日、上海で20余りの慈善団体は「しゃんしゃん会議」で日本救済を決めると、情況を聞きに上海の日本領事館や在住日本人を訪ねた。4日には、上海総商会が、「中国日本災害救済義捐会」を立ち上げ、朱葆三が会長、盛竹書と王一亭が副会長に推薦され、王一亭が事務方を務めることになった。8日の午前中には、招商局グループの汽船「新銘号」が上海を出航、マストには青地に白十字の中国日本災害救済義捐会旗が掲げられた。12日に神戸港に入港するが、この船で、関東大震災後初めて外国から救援物資が運ばれたという。また同船には、神戸に向かう中国赤十字社の医療支援チーム24人も乗りこんでいた。これが、1905年に設立された中国赤十字社にとって、最初の医療救援隊の海外派遣となる。 芸能界の行動もすばらしかった。9月6日、梅蘭芳は全国芸能界国際義捐大会を呼びかけ、「義援金募集チャリティー公演」を発表する。紆余曲折の末、当代の花形役者である余叔岩や楊小楼など揃って参加し、出し物は「十八番のオンパレード」となった。 日本は「国民答礼団」を派遣 全体的に見ると、日本の災害に対する支援が一番活発だったのは、江蘇省・浙江省である。特に上海は、日本の経済や文化と最も密接な関係があるうえ、人口が多くて豊かな土地柄だからだろう。しかし、さんざん災害に苦しめられている湖南省のような内陸部も、救援活動に参加している。湖南だけでなく遠く離れた西南部の成都でも、新聞は号外を出して、日本の大地震の惨状を驚きをもって伝え、市民に寄付を訴えた。 中国の官民挙げての支援活動を日本のメディアも報じている。『大阪朝日新聞』は、9月13日の社説で、良き隣国である中国民衆の思いやりに感謝し、「中国人がこれほど熱心に日本人の災難を助けてくれるとは、夢にも思わなかった。今回の中国人の機敏な行動に驚嘆し、中国人の高誼に感謝する」と書いた。 中国人民の支援に謝意を表すために派遣された「国民答礼団」は、10月20日に次のように謝意を表している。「このたびの貴国民のわが国震災に対する深い同情と、貴会の医療隊派遣協力に、わが国国民は非常に感動させられました。今回、上海訪問に際し、感謝の念を申し述べるとともに、今後の中日両国民の友好親善関係が一層深まることを心から希望します」東京の復興への取り組みが一段落した1930年3月、日本政府は、重光葵代理公使を通じて口上書を国民政府に渡し、震災当時に中国側から受けた支援に対し感謝の意を表した。(訳・宝賀紀子) (原载3月28日《环球时报》,题目《中国援助关东大地震:日本人说做梦也想不到》http://news.21cn.com/social/wenhua/2011/03/28/8201388.shtml) |