南京 日本語コーナーについて

 

南京大学日本語学部専家・斎藤文男

 

南京市の南京大学で1129日、「第一回日本語スピーチコンテスト」が開かれた。同市内在住の日本人と中国人が協力し、毎週土曜日にボランティアで開催している「日本語コーナー」が、発足して今年で10年目になるのを記念して開いたもので、そこで学んでいる学生ら21人が参加した。スピーチの内容は、日本語学習の体験や日中の懸け橋となる将来の夢など熱を込めて語った。中には落語の「寿限無」や日本の歌謡曲を挿入したり、漢詩を朗読する人もいて、見事な日本語に会場から盛んな拍手が沸いていた。日中両国人のボランティア活動の花が開き、10年目に結実したコンテストといえるだろう。

10年前にボランティアで発足  

日本語コーナーは、当時、南京農業大学で日本語教師をしていた柴崎了三さん(63)=現・江蘇技術師範学院日本語教師=と、日本語をマスターして日本企業に勤務していた張辛さん(40)=現・菱天(南京)精細化工有限公司総経理補佐=が中心となって、1999年秋、日本語を学んでいる中国人に対してボランティアで学習を援助した。

毎週土曜日午後2時から同5時まで、お客がまばらになった日本料理店に30人近くの中国人が集まった。教室代わりの場所は店経営者が無料で提供してくれた。当時、南京で日本語を教える教育機関はあまり多くなかった。改革開放政策から20年間を経て、外国に目を向ける若い人が多くなり、日本語を学ぼうとする人が増えていた。しかし、日本語を学ぶ学生がネイティブスピーカーの日本人と会話をする機会はめったになかった。口コミで日本語コーナーがあることを知った日本語を学習する中国人が増え、日本人留学生も講師役となって集まってきた。家族的雰囲気や会話を楽しむ  

教室代わりの日本料理店は、この10年間、閉店や移転などで転々と代わり、現在の日本料理店「水之恵」=南京市王府大街=は4店目だが、参加者は常に20人から30人がやってくる。 

スピーチコンテストが行われる1カ月ほど前、私は日本語コーナーをのぞいてみた。この日も20人あまりの若者が集まり、日本人の講師と熱心に話し合っていた。授業料はなく一切無料である。参加も強制しているわけではない。出席をとるわけではなく、欠席してもとくにとがめず、すべて自由である。なぜ、このようにたくさんの人が集まり、10年間も続いているのだろうか。参加者数人に聞いてみた。

「このコーナーの雰囲気が、とても家族的なので毎週楽しみにしている」(日本語専攻の大学2年生女子)

「日本語だけでなく、日本人と直接会話ができるので、日本人のものの考え方や、精神的な面も学ぶことができるのがとても貴重な存在だと思う」(日本語専攻の大学3年男子)

日本人の対人関係マナーを学ぶ

参加者たちは、大学の教室にはない雰囲気や楽しさを求めて自然と集まり、学習効果をあげているようだ。私が訪れた時も、私が日本人の講師と話をしている時、女子学生が私に話しかけてきた。その時、日本人講師は、「今、私たち2人が話しているのだから、脇から話しかけては失礼になる。私たちが話し終わってからにしなさい」と、諭すように注意した。女子学生は素直に「はい、分かりました。すみませんでした」と謝った。

中国人の日常生活では、2人の会話に別な人が無造作に割り込んでくる場合が非常に多い。銀行の窓口やスーパーのレジでは、並んで待っていた人の仕事をしながら、別な行員やお客が話しかけてくるのに平気で応対ししている。私は金額を間違えるのではないかと、はらはらしながら見ているが、日本ではまずあり得ない。「こちらのお客様が済んでからにしてください」と必ず言われる。

女子学生は体験的に日本人の対人関係のマナーを学び、その後は、私と日本人講師の話が終わってから、私にいろいろ話し掛けてきた。

発足10年を記念してコンテスト開催

日本語コーナーには、日本語を専攻していない他学部の大学生や、社会人もやってきて、日本人を講師に独学で日本語を学び、日本の大学に留学している人もいる。ここで日本語を磨き、日本の企業に就職した人などもいる。

発足当時からコーナーを主宰していた柴崎さんから依頼され、今年1月から主宰者となっている安藤智文さん(57)=菱天(南京)精細化工有限公司総経理=が、発足10年になるのを記念してスピーチコンテストを開こうと発案・企画した。コーナーの講師となっている日本人や中国人が中心になり、3カ月前に実行委員会を結成して準備した。南京市人民対外友好協会、南京日本商工クラブ、南京日本人会の後援も得て、1129日、ようやく開催にこぎつけた。

スピーチの中に落語、歌謡曲、漢詩も

会場は120人程の学生らで埋まり、スピーチの内容もユニークなものが続いた。日本語の発音を練習するために落語の「寿限無」を覚えて、スピーチの中でそれを巧みに披露する人や、「私と古い日中文化」というテーマのスピーチの中に王維の詩を入れたり、唐代の南京の街を歌った劉禹錫の「烏衣巷」を中国語と日本語の読み下し文で朗読する人もいた。日本の演歌の故郷として「無錫旅情」をスピーチの中で歌い、会場を盛り上げる発表者もいた。私もスピーチの休憩時間にハーモニカで「茉莉花」「南泥湾」「北国の春」「童年」を演奏して発表者の緊張感を和らげ、わずかながら雰囲気作りのお手伝いをした。アンコールの拍手があったのには驚いた。

全員入賞、ユニークな入賞名

発表した人は日本語の学習を始めてから2、3年という人がほとんど。大学で日本語を専攻していたり、日本語コーナーを中心に独学で学んだ人もいたが、主催者側が予想していた以上の素晴らしいスピーチだった。今回は一回目のコンテストだったことから、奨励する意味も込めて21人全員が入賞となった。入賞名は「未来は明るいで賞」「みんなが喜んだで賞」「まるで七歩の詩で賞」「日中友好の橋になるで賞」「夢は実現するで賞」「心に太陽があるので賞」などスピーチの内容に応じて個性的な名称となった。

南京市外事弁公室で15年間、中日交流関係の仕事で活躍されている来賓の孫曼さんは、発表者の全体的な印象として次のように語り、学生たちを励ました。

「スピーチの内容が良かった人、話し方が上手だった人などそれぞれでしたが、全体的にはとてもよかった。しかし、中国語の漢字をそのまま日本語読みにしているケースもありました。中国語も日本語も同じ漢字を使っているが、意味が異なる場合があり、このようなことは大きな落とし穴になります。日本語で話す場合、中国語を日本語に訳してから話すのではなく、始めから日本語で考えることが必要です。中日の交流をさらに深めて、幅広い教養を身につけ、今後もしっかり学習してください。」

入賞者21人全員が賞状と賞品を受け取ったあと、発足からこれまで10年間、日本語コーナーを主宰してきた柴崎了三さんが最後に挨拶した。

「私たちは何も見返りを求めないでこれまで10年間、日本語学習のお手伝いをしてきました。ここを巣立った人たちは、これまでに1万人ぐらいはいるでしょう。10年間はあっという間でした。私たち日本人だけでなく、中国の多くの人たちのボランティアにも支えられながらやってきました。これからも、できるだけ長く、この日本語コーナーを続けていきたい」と、支援者らに感謝していた。

「北京週報日本語版」20091214日より転載