また会える日まで
吉林大学 趙志琳
2024年3月3日午前六時十五分、池袋西口発成田空港行きのバスが定刻に出ました。車が動きだすと同時に、私の1週間にわたる訪日の旅も終わりを迎えました。
小さい頃から普通の子だった私は、いつか中国青年の代表として国際社会で自分の声を出せるとは思ってもみませんでした。それが、中国人の日本語作文コンクールに入賞し、自分の考えを話せる場までいただいたので、長きにわたってコンクールの開催に尽力されてきました日中交流研究所の段躍中所長とスタッフの皆様、そして協賛企業の皆様に心より御礼申し上げます。
この一週間にお会いした政財界、メディア界のトップに立つ方々の中には、子どもの頃から本やテレビで見たことのある方々が多く、彼らと顔を合わせて話をするのは緊張と興奮の連続でした。以前、私はいつも自分の発音が悪くて、日本語で話すことに怯えていました。しかし、今回の交流で皆さんは私を温かくうけいれてくれました。だから発音や文法にこだわるよりも、自分の考えを伝えることが大事だと悟りました。政治家の方々は若者が未来の希望であり、中日友好の希望であることを強調していました。未来の中日友好の主力として、私もできるだけの力を両国の友好関係の更なる発展に貢献したいと思います。国内で日本語を専攻している学生は、日本語で話す相手はほとんどクラスメートか日本人教師です。だからこそ、多くの生身の日本人や日本で生活する中国人に自分の考えを伝えたり、意見交換したりすることは本当に貴重な経験でした。
そして今回の訪日を通じて、中日交流について新たに気付いたことがあります。パンダに限らず、日本人が中国好きになるものはたくさんあります。周恩来総理や孫文先生を尊敬している人や魯迅先生の小説を愛読している人や私の好きな女性作家の蕭紅と樋口一葉の比較研究をしている人などもいっぱいいました。さらに、多くの日本の若者が中国のゲーム「原神」や「魔道祖師」というアニメなどを楽しんでいることも知りました。現在、中国の一部の大学生は国内で就職難に直面しており、多くの日本語専攻生は自分の4年間の努力に疑問を持っています。今回の訪日で中日の交流はまだまだ先があり、この過程では多くの架け橋が必要ですから、中日交流や友好関連の事業に力を入れることも卒業後の選択肢の一つだと思うようになりました。
今回の訪日で一番印象的なのは、立教大学を訪問したことです。そこには、20世紀から現在に至るまで在日華僑が発行した新聞などの資料がすべて収蔵されています。私は作文コンクールの受賞作に「故人はすでに亡くなっていますが、中日友好交流の貴重な経験を時間の経過とともに風化させるのではなく、古人の知恵の証である囲碁のように扱い、その醍醐味を味わい、新しい時代の交流にいかすことができると確信しております。」と書きましたが、思えば、新聞も囲碁のように媒介物の役割を果たしていると思います。前世紀からの新聞の一部が、私と当時の先輩たちをつなぐ通路になってくれました。これらの新聞は先人たちが中日友好のために努力してきた証なのではないでしょうか。学術研究の初心者として、このような一次資料を目にした私は、とても感動し、言葉にできない気持ちでした。今後も歴史研究の道において、初心を忘れず、中日交流研究に揺るぎなく取り組んでまいります。
研究をするには客観的で多様なものを見なければなりません。中日交流も同じだと思います。歴史を鑑とすると同時に、手を携えて未来を展望しなければなりません。「小異を残し、大同に就く」という原則を堅持し、東アジアひいては世界の平和と発展を推進していくことが大切です。今回の訪日は、私の人生にとって貴重な経験となって20代の私に人生の理想とこれから進むべき道をより明確にさせてくれました。お会いした方々に感謝しております。これからも頑張って、今度は学者として日本に来ます。今後も中国人の日本語作文コンクールが順調に開催されますことを心よりお祈りします。
それでは、また会える日まで。
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