第一回「忘れられない中国滞在エピソード」一等賞受賞作

 

会って話すことの大切さ

瀬野 清水

 

 

表彰式で受賞作を紹介する瀬野清水さんby段躍中

 

 

私は外国語大学で中国語を学び、卒業後はできることなら中国と関係する職場で働きたいと願っていた。何故、中国語かといえば中国に行きたい一心だったからであるが、どうしてそんなに中国に行きたかったのかといえば、高校の図書館で偶然手にしたグラフ雑誌がきっかけだった。

 

その雑誌は戦時中、日本の従軍カメラマンが撮った日中戦争の写真集であった。検閲の結果、不許可とされていた写真が解禁となったことを機に特集したものだった。中には中国大陸に侵攻した日本兵が無抵抗の中国人を銃剣や日本刀で殺害している生々しい写真が含まれていて、多感な高校生であった私は大きな衝撃を受けた。日本軍はどうしてあの広大な中国に出かけてまで戦争をしたのだろうか。勝てると思っていたのだろうか。こうして殺されていった若者の親や家族は日本のことをどう思っているだろうか。日本人と中国人が、こんなにも近い国にいながらどうして殺し合わないといけなかったのだろうか。

 

静まり返った放課後の図書館で、次から次へと「はてなマーク」が増殖を続けた。これは自分が中国に行くしかない。何ができるか分からないが、もう二度と戦火を交えることがないように、私にも何かできることがあるはずだと思うようになったのだ。目標が明確になると、なすべきことが見えてくる。それが冒頭の大学で中国語を学び、中国と関係する職場で働くという夢への挑戦であった。

 

結局、私は外務省に入省し、定年まで37年の大半を中国に関係する仕事をし、通算して25年を中国で過ごすことになった。中国へは3回赴任した。1回目は1976年から1983年までで、この間に香港、北京、瀋陽、上海などに駐在した。2回目は1989年から2001年まで。この間に広州、北京、上海に駐在。3回目は2007年から2012年まで、広州と重慶に駐在して定年を迎えた。3度の赴任で6都市をめぐり、このうち北京、上海、広州は2度ずつ勤務したことになる。

 

広州で「おじいさん」に初めて出会ったのは、2度目の赴任の時だ。

当時の広州は建設ラッシュが続く中で、至るところで交通渋滞が発生し、街はまるで道具箱をひっくり返したような砂埃と喧騒の中にあった。我が家は、妻と、小学2年の長男を頭に小学1年の長女と3歳の次女という5人家族での赴任だった。今のように日本人学校がある訳ではないので、着任早々、小学校と幼稚園探しが始まった。幸い、小学校は培正小学校という創立100年を超す歴史ある現地校に入れて頂けた。最初は言葉が通じないので、長男と長女は1年生の同じクラスに入れてもらい、2人で何とか助け合って学校に通うことになった。

 

問題は幼稚園である。外国人の子どもを受け入れてもよいという幼稚園があるにはあったものの、そこは全寮制で週末しか家に帰ることが許されておらず、できるだけ手元で育てたいと思う我が家の方針と相いれなかった。途方に暮れていたころ、宿舎となっているホテルのご好意で、ホテル従業員の子弟が通う幼稚園に入れてもらえることになった。慣れない環境で心細がっていた我が子を、先生方は熱心に面倒を見て下さった。中でも、女性の園長先生はことのほか日本人である娘のことを可愛がって下さり、日ならずして幼稚園に通うのをすっかり楽しみにするようになった。

 

ある日のこと、園長先生が私たち一家をご自宅に招いて下さることになった。そのご家庭は園長先生ご夫妻とそのご両親、それに中学生と高校生くらいの2人の娘さんの6人暮らしだった。2人の娘さんと我が家の3人の子どもはすぐに打ち解けて仲良く遊んでいるのに、園長先生のお父さんとは初対面のご挨拶をしただけで、会話に入って来ようとはしなかった。「おじいさん」というのは園長先生のお父さんのことだ。怖い顔で1人、酒を飲んでいた。「せっかく日本のお客様が来てくれているのだから、お父さんもこちらにいらっしゃいよ」と園長先生に促されてようやく同じテーブルに座った。「あんたは酒が飲めるのか?」とおじいさんがぶっきらぼうに聞き、私は大好きですと答えた。「じゃあ飲め。乾杯だ」と言って注がれたのは火をつけたら燃えるような白酒だった。何度か杯のやり取りをしているうちに、このおじいさんが実は、孫文が設立し、蒋介石が校長、周恩来が政治部副主任という錚々たる顔ぶれで知られる黄埔軍官学校の卒業生であったらしいこと、国民党軍の元幹部として戦争中、上海で日本軍との激しい戦闘に参加したらしいこと、戦後の今も戦友会の会報の編集に携わり、自らも回想録を書いておられることなどが分かってきたが、厳しい表情は変わらず、顔は笑っても目が笑うことはなかった。

 

中国では、招かれたら招き返すのがしきたりだ。この次は我が家に、とご一家をお招きしたり、広州の花市や灯篭祭り、端午の祭りや中秋など、季節のイベントには私たち一家を誘って下さったりして、その後も家族ぐるみの交流が続いた。そのたびにおじいさんとは酒を酌み交わし、よもやま話をした。そんなある日、おじいさんはしみじみと話し始めた。「実は僕は、日本人が憎くて、憎くて、大嫌いだったんだよ。それどころか、上海の戦闘では大勢の戦友が日本軍に殺されて、自分だけが生き残ってしまった。優秀な戦友が亡くなってなんで僕だけが生き残ったのかと自分を責めながら、日本人に出会ったら必ず戦友の仇を討って、僕も早く戦友のところに行こうとずっと思っていた」という。このおじいさんにとって、我が家族は戦後初めて出会った日本人だった。出会った時の表情が険しく、日本人への憎しみがにじみ出ていたのはそのせいだったのだ。私は何と答えていいものか分からないまま、深くうなずいて聞いていた。

 

その後も何度か家族で訪ねては、白酒を酌み交わしているうちに、おじいさんは言った。「あんた方の家族を見ているともう昔の恨みはなくなったよ。日本人もみんなと同じ人間なんだ。中国人と日本人は仲良くつきあえるということがわかったよ」と。私は嬉しかった。そのために私は中国に来たのだから。

 

おじいさんは2008年、私たちが3度目の赴任で広州にいる時に84歳でこの世を去った。私は取るものもとりあえず葬儀に駆けつけた。葬儀は広州市銀河革命公墓という中国の建設に功労のあった人たちが眠る墓園で、大勢の参列者が別れを惜しんでいた。ご一家を代表してお礼の言葉を述べたのは、出会った当時は中学生だった下のお嬢さんだ。一児の母となって、おじいさんに曾孫の顔を見せられたことを心の慰めにしていた。

 

あの時の我が家の幼稚園児は、今では2児の母親に。妹と一緒に培正小学校に通っていた長男も今は2児の父親に。長女は中国系の企業で通訳として勤めて、今も中国との関りを続けている。若いと思っていた私も気がつけばおじいさんと初めて出会った頃の歳になっているが、その後も園長先生やその子どもの世代とは家族ぐるみのお付き合いが続いている。

 

私が外務省にいた37年間は、中国が目覚ましい変貌を遂げた歳月でもあった。日々豊かに発展していく様子を目の当たりにできたことは幸せなことであった。このように高校時代の夢を叶えてくれた外務省には感謝の言葉もない。そして、その間に何と多くの忘れ得ぬ中国の友人と出会えたことだろう。中でも、会って話せばわかり合えることを教えてくれた園長先生のお父さんとの出会いを忘れることが出来ない。

 

 

略歴 瀬野 清水(せの きよみ)1949年長崎県生まれ。75年外務省に入省。76年から香港中文大学、北京語言学院、遼寧大学で中国語を研修。アジア歴史資料センター資料情報専門官、外務省中国課地域調整官、在重慶総領事、中小機構国際化支援アドバイザー、大阪電気通信大学客員教授などを歴任。現在、日中協会理事、成渝日本経済文化交流協会顧問、アジア・ユーラシア総合研究所客員研究員など。

 

 

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