第一回「忘れられない中国滞在エピソード」一等賞受賞作

 

私を変えた中国滞在

相曽 圭

 

 

表彰式で受賞作を紹介する相曾さんby段躍中

 

 

 

ああ われら 世界を結ぶ子供なり

 

ああ われら 世界の津の子供なり

 

私は4年前、天津日本人学校の小学部を卒業しました。これは、校歌の最後の歌詞です。歌いやすく、リズムが良いこの校歌を、日本に帰国した今でも、ふと口ずさんでいることがあります。

 

私が中国で暮らすことになった理由は、父の赴任です。父は、家族が中国で生活することに反対でした。その一番の要因は、日本と中国の関係があまり良くないという事でした。通っていた天津日本人学校が、中国人に落書きされたり、ガラスを割られたりしたことがあったことも知りました。だから、中国の生活には、不安な気持ちがありました。もちろんそんな気持ちだけでなく、異文化に触れることへの楽しさもありました。力強く、素早い動きで人々を魅了する中国武術、パリパリともちもちの食感が口いっぱいに広がる北京ダック、スーパーの、雛の脚が飛び出ていた卵、数えくれないくらいたくさんの感激や驚き、発見がありました。そんな、初めての中国での生活にも慣れてきたころ、私に大切なことを気づかせてくれた出来事がありました。

 

私が母と一緒に近くの市場に買い物に行ったときの事です。その日は、休日ということもあり、市場は多くの人でにぎわっていました。また、野菜や果物を届ける荷車やトラックも、多く行きかっていました。私は、母と喋りながら市場をまわっていました。その時、私は会話に夢中で、後ろから大きなトラックが来ていること、そして人々がそれに気づき、道を開けていることに全く気づきませんでした。すると、急に後ろから大きな声が聞こえて、近くにいたおじさんに腕を引っ張られました。一瞬背中がゾクッとしました。

 

突然の出来事に驚きを隠せないでいると、そんな私の横を、スイカをたくさん乗せたトラックが通り過ぎました。私は、その時やっと自分がトラックの邪魔になっていたことに気づきました。そして、周りが見えていなかった自分が恥ずかしくなりました。しかし、その後すぐに、助けてもらっていたのに、思わず怖さを感じてしまった自分自身への恥ずかしさ、そしておじさんへの申し訳なさが私の心の大部分を占めました。ハッとお礼を言っていないことに気づき、慌てておじさんの姿を探しましたが、その時にはもう見当たりませんでした。

 

家に帰り、姉に市場であった出来事について話そうとして、ふと気づきました。「今日、中国人のおじさんに助けてもらった。」私の口から出そうになった言葉に、心がモヤッとしたのです。その言葉が頭の中を駆け巡りました。「中国人のおじさん」「中国人の」これだと思いました。私はいつの間にか、中国人との間に壁を作ってしまっていたのです。中国と日本はあまり仲が良くない、中国人は日本人の事をあまりよく思っていない、と勝手に決めつけて。私が腕を引っ張られたとき、思わず怖いと感じたのも、これが原因だと思います。突然だったことも一つの理由だと思いますが、大きな理由は、私の中にあった壁だったのです。

 

どうやったら壁がなくなるのか考えていたころ、通っていた日本人学校の行事である、現地校交流会がありました。それは、現地校の生徒を学校に招待して、一緒にゲームをしたり、歌を歌ったりする会です。私たちのクラスは、めんこやこま、おはじきなど、日本の伝統的な遊びをすることになりました。私は、おはじきの遊び方の説明を担当しました。説明は全て中国語で、私は苦戦しました。原稿づくりから発音練習まで、先生の手を借りながらも、なんとか説明が出来るところまでこぎつけました。そうして迎えた交流会当日。正直、自分の説明で本当に理解してもらえるのか不安でいっぱいでした。その不安は案の定的中し、現地校の生徒は、私が説明したとき、困惑した顔をしていました。もういっそのこと原稿を見せてしまおうか、それとも中国語が話せる子を呼んできて、私の代わりに説明してもらおうか、そんな後ろ向きな気持ちが生まれました。

 

その時、現地校の生徒が私に、「こういう事?」「こうやっておはじきを動かすの?」と聞き返してきました。思いがけないことに、びっくりしました。でも、少しでも分かってもらえていたんだと思ったら、すごく嬉しくなりました。そして、何としても自分の力で伝えたいと思いました。私は、身振り手振りも交えて、一生懸命説明しました。そうしたら、現地校の生徒も、ひたむきに私の言葉に耳を傾けてくれました。そして、ついに最後にはみんなで、おはじきで遊ぶことが出来たのです。現地校の生徒が、にっこり笑って、「謝謝。」と言ってくれました。その言葉に、私は目の前がパッと開けた気がしました。これまで感じたことのないすっきりとした気持ちになりました。私はこの時、私の心の中にあった壁を壊すことができたのだと思います。そして、現地校の生徒の笑顔は、壁がなくなったからこそ得ることが出来た笑顔だったのだと思います。

 

近年、中国人の観光客の増加に伴い、中国に関する様々なニュースを耳にします。中国の空気についてであったり、日本を訪れる人のマナーについてであったり、内容はいろいろです。それらのニュースは事実です。しかし、それらのニュースをただ鵜呑みにして、中国に対して批判的なことを言う事は違うと思います。自分から知ろうとしないこと、関心を持たないこと、諦めようとすること、それらの気持ちが積み重なって、壁が出来ていくのです。

 

壁は、自分の意思で高くすることも、広げることもできると思います。その壁は、もしかしたら自分を何かから守ることにつながるかもしれません。しかしそれは、新たな発見にはつながりません。なぜなら、壁の先にある世界を見ることが出来ないからです。壁の先がどうなっているのか、何があるのか分からないのです。私は、中国滞在を通して、壁を壊して、中国の文化のすばらしさ、中国の人々の温かさなどに気づくことが出来ました。この滞在は、私にとってかけがえのない思い出となりました。

 

日本と中国が日中平和友好条約を結んでから、今年で40年です。私はこの「日中平和友好条約」という言葉を、日本に帰国してから学びました。この条約を結ぶまでには、八十五年にもわたる侵略と敵対の歴史があったのです。習った当初、私はその壮絶さに息をのみました。この、「平和」「友好」という言葉には、この八十五年間を生きた人々の様々な思いが込められているはずです。

 

ああ われら 世界を結ぶ子供なり

 

ああ われら 世界の津の子供なり

 

この歌詞には、地球は一つという理想のもと、一人一人が世界の津となり、国際人として活躍していってほしいという思いが込められています。

 

日本と中国が、心の中にある壁を越えて、お互いの国の良さをもっと知ることができたら、それこそが、今以上の「平和」「友好」につながると私は信じています。それは、今を生きている私たちだけが出来ることだと思います。きっと私にも、中国に滞在した私にしかできない何かがきっとあるはずです。それを見つけ、日本と中国の関係をもっともっと固く結べるよう、この経験を活かし、活躍していきたいです。

 

地球は一つ、日本中国関係なしに助け合える、協力し合えるそんな社会にしたいです。

 

日本と中国の関係がますます良くなることを願っています。

 

学歴

平成14 12   生  

平成21 4月   浜松市立中ノ町小学校 入学

平成25 8月   中国天津日本人学校  編入  

平成27 3月   中国天津日本人学校  卒業

平成27 4月   静岡県立浜松西高等学校中等部  入学

平成30 3月   静岡県立浜松西高等学校中等部  卒業

平成30 4月   静岡県浜松西高等学校  入学

 

 

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